忘却の蝶は夜に恋う

「其処を退けッ!!」

「強盗よ! 誰か騎士団を呼んで──」

 通りの向こうで悲鳴が上がった。男の集団から逃れるように、人が次々と流れてくる。

 流れに呑まれないよう、イスカはノクスの手を取って走り出そうとしたが、イスカの指先はノクスの黒服を掠めただけだった。

「邪魔だッ!!」

「っ!」

 どさ、と誰かの肩がイスカにぶつかる。イスカは咄嗟に傘を前に突き出したが、間に合わなかった。身体は大きくよろめき、整備途中のごつごつとした灰色の道が視界いっぱいに映る。

 次なる衝撃を前に、ぎょっと目を見開いた時。誰かに手を握られたかと思えば、力いっぱい引き上げられ、ぐるりと景色が反転した。

 知らない匂いが、びっくりするくらい近くから香る。目の前にはすべらかな黒色の衣服があった。そろそろと顔を上げてみると、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にノクスの顔がある。

「──婚約者殿?」

 ノクスは変な顔をしていた。呆けているのか、驚いているのか、焦っているのか──どれにも当てはまらない。

 倒れそうになったイスカの手を掴み、力強く引き上げ、そして受け止めてくれたノクスは、無言でイスカを見下ろしている。次第にその瞳は見開かれていき、イスカがもう一度声を掛けようとした時にはもう、満月の如く丸くなっていた。

 イスカは唇を開けた。だがイスカの声が喉元を越えるよりも先に、ノクスの柔らかい唇が音を奏でた。

「──早く離れてくれないか」

「────ん、んん?」

 イスカは口を開けたまま固まった。
 
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