忘却の蝶は夜に恋う


 どうしてこの手は、彼女の手を掴んだのだろうか。

 何度自分の心に問いかけても、答えはひとつも返ってこなかった。今ここにセバスチャンが居たならば、目の前で倒れそうな人がいるならば、手を伸ばすのは当たり前のことだと言いそうだが、ノクスにはそういった親切心はない。

 ならどういうことなのかと、イスカを眺めながら考える。折れそうなくらい細い身体に添えた手に、吃驚するくらい冷たかった指先に、今朝は白かったけれど今は赤みを帯びている頬に、そして空色の瞳に。

 光で染まったような髪が風に揺られ、ノクスの指先を掠めた時。口を衝いて出たのは、己の行動と矛盾している一言だった。

「──早く離れてくれないか」

「────ん、んん?」

 案の定、イスカは固まっている。抱き止めているくせに何を言うんだとばかりの顔で。

「受け止めておいて、何を言うんだい」

 それはそうだ、とノクスは思った。イスカから顔を背け、手も離し、ゆっくりと深呼吸をする。三回目をし終えた時、頭の中はすっきりとしていた。

「変な噂を立てられたら面倒だろう」

「例えばどんな?」

「……皇命で婚約者となった女が倒れそうになったのに無視をして、その女は頭にコブを作ってしまった、とか」

 最後の方はぼそぼそとした声で言ったので、彼女に伝わっていたかは分からない。だがイスカの耳にはばっちり聞き取れていたらしく、彼女はお腹を抱えて笑い出した。
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