忘却の蝶は夜に恋う


 その日のノクスの帰宅は遅かった。

「お帰りなさい、婚約者殿」

 入浴後だったイスカは寝間着姿でノクスを出迎えた。髪が乾いていない為、首にはタオルが掛けられている。令嬢としてそれは如何なのか、とチクチク言われるのが目に見えていたが、ノクスは何も言わなかった。

 ノクスはイスカをちらっと一瞥すると、一つ頷いてから横を通り過ぎる。遅れてやってきたセバスチャンには「ただいま」と言うと、シュルッと解いたタイと鞄を預け、奥へと向かって歩き出した。

 イスカはその隣を歩きながら、労うように肩に触れる。男性にしては細く、押したら倒れてしまいそうな気がした。

「今日は随分と遅かったんだね」

「やる事が多かった。今朝のくだらない騒ぎに時間を取られたというのもある」

 ノクスの端正な横顔には疲労の色が滲んでいる。今朝の騒ぎの後も色々とあったに違いない。

「城は常に人手不足のようだね。行政府の省の長官が二つ空席だとか」

「ああ。埋めようにも、そう簡単に埋められるものではない」

 行政府を取りまとめるのが宰相のエヴァンで、その補佐がノクスだ。行政府には六つの省があり、外務、財務、工務、刑務、祭務、内務と六つの部署に分かれている。そのうちの二つ──祭務省と内務省には長官がいない為、ノクスとエヴァンが舵をとっている。
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