忘却の蝶は夜に恋う
「お帰りなさいませ、ノクス様」
セバスチャンは深々と一礼すると、にっこりと笑った。毎日邸で見ているその姿を前にしていると、ここが自分の執務室であることを忘れそうになる。
「何故ここにセバスチャンが?」
「お茶を淹れるために馳せ参じたのですよ」
「わざわざ僕の執務室まで? どうやって入ったんだ……」
ほほほ、とセバスチャンは笑いながら、茶器を使い始めた。いつものエプロン姿ではなく洒落た燕尾服を着ていて新鮮だ。お茶を淹れている姿はまるで執事のようである。
差し出されたお茶の隣には、珍しく菓子があった。
「君が菓子を出すとは珍しいな」
「今日はいい日ですからのう」
どこがいい日なんだ、とノクスは心の中で呟く。皇帝が即位して一年を迎えたのはめでたいことだが、民にとってはどうだろうか。
民は平和で安定した生活さえ送れれば、皇帝は誰であろうと構わないのではないかと思う。現にノクスはそういう考えの持ち主だ。
小皿に乗った菓子に口をつけると、ほんのりと甘かった。端が焦げたように黒いのが少々気になったが、イスカが焼いた炭の塊のようなパンに比べればずっといい。
「……セバスチャン。まさかとは思うが、この菓子を作ったのは?」
セバスチャンは二度瞬きをしたあと、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。それが答えのようだ。