忘却の蝶は夜に恋う
 夕刻、ノクスはジャケットだけを替えてホールへと向かった。セバスチャンとイスカが結託してアイスグレーの礼服を用意してくれていたが、ノクスは断った。黒色の服を着ていなければ落ち着かないからだ。

 そもそも、夜会に参加はしてもすぐに帰るつもりだった。皇帝に挨拶をし、エヴァンとひとこと二言交わせば、本日のノクスの任務は終了だ。平民であるノクスが貴族の集まりである夜会で、それ以上何をするというのか。

 一瞬、頭の中にイスカの顔が浮かんだ。パートナーがどうだと語っていた彼女の笑顔が。

 仮に彼女の言う通りに参加するとして、綺麗に着飾った彼女の隣に、マナーの欠片もない黒服の平民が立ったら、周りはどう思うだろうか。彼女に恥をかかせることになるのではないだろうか。

 いっそ恥をかかせて、一刻も早く婚約を解消せねばと思ってもらうことも考えたが──それではイスカのために仕立てられたドレスが報われないだろう。

 だからノクスは顔だけ出して、イスカはノクスではない別の誰かと踊って楽しんでくれたらいいと思う。

 裏口からホールに入ったノクスは、エヴァンの姿を探して歩き出した。すれ違う人たちからは好奇な目で見られ、ひそひそと何かを囁かれるが、気にしなければただの雑音だ。

 人混みを抜けて中央へ出ると、階段のそばでエヴァンが先代の宰相と話している姿を見かけた。どうやらこの夜会はイスカのドレス姿を見ることなく終えそうだ。

 目的地へと向かって歩いていると、突然横から人が飛び出し、ノクスの行く手を阻んだ。
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