忘却の蝶は夜に恋う
「すまないね、手が滑ってしまったようだ」

 聞き知った声がホールに響き渡る。声の主は少女の背後から現れ、勝ち気な微笑みを飾っていた。

 ノクスはその姿に思わず目を奪われていた。シャンデリアの光も宝石の輝きも飲み込んでしまいそうな、真っ黒なドレスだ。城下町の仕立て屋でノクスが選んだ布で仕立てられたものではなく、ノクスのように黒一色でクラシカルなものだ。

 真っ黒なドレス姿で現れたのはイスカだった。ノクスにワインを掛けた少女をずぶ濡れにしたのも彼女だ。

 イスカはヒールを鳴らしながら歩み寄ってくると、頭ひとつ分背が低い少女を見下ろした。

「おや、三杯も彼にぶっ掛けたというのに、君のドレスはちっとも濡れていないね。赤色を着ていたのはこの為かい?」

 イスカの挑発的な問いに、少女は慌てふためいたように顔を赤くさせたり蒼くさせたりしている。

「そ、そんなわけないでしょうっ?!」

「貴女は頭から浴びても赤毛だから目立たないが、私が浴びたら人前に出られなくなってしまうよ。いいね、貴女の赤毛は」

「さっきから何なんですの!? 無関係のくせに、わたくしをこんな目にしてッ……!!」

 少女の頬に赤みが増していく。ワインを掛けられただけでなく、髪まで馬鹿にされたことで耐えかねたのか、すぐ近くのテーブルから並々とワインが注がれているグラスを手に取り、イスカへと目掛けて投げつける。

 だがイスカはそれに一瞥もくれずに避け、真後ろにいた男性からワイングラスを奪い取り、それを少女の頭から浴びせた。

「──それはこちらの台詞だよ。私の婚約者を、君の色で染めないでくれたまえ」

 イスカは少女の耳元でそうささやきかけると、にっこりと、そして不敵に微笑んだ。その姿に目を奪われ、動けなくなっていたのは、ノクスだけではないだろう。きっと。
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