忘却の蝶は夜に恋う


 イスカは立ち尽くしているノクスの目の前まで駆け寄った。冷たいワインを浴びせられたからか、彼の顔は蒼白色だ。白い手を握ると、吸い込まれるようにイスカを見つめていた瞳が揺れ動いた。

「大丈夫かい、婚約者殿。……ああ、こんなに濡れてしまって」

「……貴女こそ」

「うん? 私こそ何だと言うんだ」

 イスカは小さく笑ってから、ノクスの手を引いて歩き出した。

 ノクスはイスカの手を振り払わなかった。濡れた前髪からはワインが滴り、歩みを進めるたびに床に赤色の液が散った。悪いことをした子供のように俯いて、ただ足を動かしている。

 イスカはノクスの手を握る手に力を込めた。冷え切ったワインのように冷たくなっている指先に、ほんの少しでも熱が伝わってくれたらいいと、そう思いながら。


 逃げるようにホールを出た二人は居館へと戻り、近くにあった客間に入った。バスルームへと直行し、イスカはノクスが着ているジャケットを剥ぎ取る。

 早く着替えないと風邪を引いてしまうかもしれないというのに、ノクスは一向に服を脱ごうとしない。

 イスカは軽く肩をすくめてから、ほんの少しだけ背が高いノクスの顔を見上げた。

「ほら、早く脱がないと、風邪を引いてしまうよ。それとも私に脱がしてほしいのかい?」

 冗談めかして言うと、ノクスは長い長いため息を吐いた。
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