絶対零度の王子殿下は、訳アリ男装令嬢を愛して離さない
「で、殿下……ぼ、僕は、」
「カイルじゃない君の、セレナの気持ちを聞かせて欲しい」
「わ……私……」
自分のことを「私」と口にしただけで、ぶわりと涙が溢れてしまった。
数年ぶりに本当の名前を呼んでもらえた。
カイルとしての自分ではなく、セレナとして見てもらえた。
必要としてもらえた。
生きているのは自分なのに、まるで自分だけが透明で存在していないみたいだったセレナにとって、アンリの告白は乾いた砂漠で旅人の喉を潤すオアシスそのものだ。
さらにそれをもたらしたのが、アンリだという事実が本当に信じられない。ずっと、無理やり蓋をして目を逸らしてきた感情が、溢れだす。
(これは、夢?)
そうだ、夢に違いない。
この期に及んでそんな現実逃避をするセレナだったが、なおも涙で濡れた頬をアンリは指で拭う。しっかりと触れた手のリアルな感触と温度に、夢ではないと否定されてしまった。
「けど……私は……」
セレナは、今すぐにでもアンリの胸に飛び込んでしまいたい衝動を押さえて、両手をぎゅっと握りしめる。
脳裡に浮かぶのは、兄・カイルの笑顔だった。自分のせいで死なせてしまった優しい兄は、十歳のまま時が止まっている。それ以上でもそれ以下でもない、十歳のままだ。
「私、には……幸せになる資格がありません……。私は、兄を死なせてしまったから」
兄の未来を絶ってしまった自分は、兄が歩むはずだった道を歩まなければならない。
それは、アンリにバレてしまった今、叶わないとしても、兄を差し置いて自分だけが幸せになるなんて、間違っている。
きっと父だって許しはしないだろう。
「君の兄君は、それを望んでいるだろうか?」
「え?」
「妹の君を助けたのはなぜ?」
「それは……兄は、優しかったから……」
「自分の命に代えてでも、君に生きて欲しかったから助けたんだろう? もちろん、自分の代わりなんかではなく、セレナとして幸せに生きて欲しいと願っているんじゃないだろうか。――それとも、兄君は君の幸せを願ってくれないほど狭量な」
「ちがっ、兄は誰よりも優しい人でした!」
思わず大きな声を出してしまってから、セレナはハッとして目の前のアンリを見た。案の定、こちらを見つめるアンリと視線がかち合う。とても穏やかな笑みを見た瞬間、すとんとなにかが音を立てて落ちたのを、セレナは確かに感じた。
「あ……、私……」
(あぁ、そうか……私、ずっと間違ってた……?)
優しかった兄が、人の不幸を願うはずも人の幸せを呪うはずもないのに。どうしてそんなことにすら気付けなかったんだろう。
「私は……自分の人生を生きても……幸せになっても、いいのでしょ……か……っ」
涙が、枯れることはないのだとセレナに知らしめるようにぽろぽろと落ちる。
「あぁ、もちろんだ。君は、兄君の分も幸せにならなくてはいけない」
アンリの言葉は、神の許しのように飢えた心にしみ込んでいく。
(それなら……答えは一つしかない……)
どんな形であれ、アンリのそばにいたいと願っていたセレナ。どんなめぐり合せか、アンリも自分を求めてくれている今、望むのはたった一つ。淡く温かな気持ちが、胸の奥からそこはかとなく込み上げてくる。
(でも……、いいのかな……私なんかが……)
不安が胸を過ぎる。なんの取り柄もない自分が、王子であるアンリのそばにいていいのだろうか。
逡巡していると、頬に手が触れた。
まず指先が触れて、滑るようにして手のひらがセレナの頬を包み込む。
その手がかすかに震えていて、セレナは驚いた。あのアンリが、緊張しているなんてと。
途端に、目の前のアンリが小さく見えた。王子ではなく、ただの一人の人間で、もっと言うとたった十六歳の青年でしかなかった。
そして、そんな彼を緊張させているのが自分だと気付いたセレナは、その手に自分の手を恐る恐る重ねる。ピクリと跳ねたのも一瞬で、避けられなくてほっとする。
本当に自分でいいのかと思ったままを尋ねたら、再びアンリの胸に抱き寄せられていた。
「……聞こえるだろ、心臓が破裂しそうだ」
どくどくと、アンリの拍動がシャツ越しに伝わってきた瞬間、顔から湯気が出るんじゃないかと思うくらいに熱が集まった。今度はセレナの心臓が速さを増していく。
「君の、ころころ変わる表情豊かなところや、魔法の話を楽しそうにする無邪気な姿に惹かれていた。いつの間にか、君のことばかり考えている。異性相手にこんな気持ちになるのは、君が、……セレナが初めてなんだ」
飾らずに思いの丈を伝えてくれるアンリが、とても愛おしく感じてセレナの頬が緩む。
「私も、殿下が好きです……。叶うことなら、これからも殿下のおそばにいさせてください」
「っ、……もう、なにがあっても君を離さないからな」
いいんだなと念押しされて腕の中で頷くと、息ができないほどにさらに強く抱きすくめられた。
「はい……離さないでください。――それが、私の幸せですから」
その苦しささえも愛しくて、愛しくてたまらなくなったセレナは、アンリの背に両手をいっぱいに伸ばして抱きしめ返した。
腕の中の幸せを、一つたりとも零さないように。
強く、けれど壊さないように、ありったけの優しさを込めて自身の手に包み込んだ。
fin.