「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 そうだ。何も待っているだけでは、ないのだろうか。
 わたしも彼も、今ここにいる。手を伸ばせば触れることができる。

「妻の部屋に夫がいても、何の問題もないかと」

 空けられた分の距離を詰めて、骨ばったその手に触れた。ぴくり、とその手が震える。そのままその手をぎゅっと握った。

 その手は確かに、あたたかな血の通った人の手だった。

「殿下はよく頑張っておられると、思います」

 何が求められているかは分からないけれど、伝えなければと思ったから。

 灰青色の目が見開かれて真ん丸になる。薄い膜が張ったようにその目が潤んでいって、淡い光の中でさざ波のように揺れる。

 零れると思ったら、ぐっと何かに引き寄せられた。

 それは、思いの外強い力だった。男の腕の中で、体が強張るのが分かる。目をやれば、床に落ちた自分とヴィルヘルムの影が一つに重なっていた。

 しがみつくようにヴィルヘルムの腕が回される。すると、ふわりと香る陽の光と駆け抜けていく風の匂いに包まれた。

「アン」

 こんな風に、誰かに愛称のようなもので呼ばれたことなんてなかった。そして、男の人に抱きしめられたことも、なかった。だから、すぐに返事ができなかった。

 いつもヴィルヘルムが纏っていたあの凛とした硬質な香りはしない。こちらの彼は香水など付けないだろうから、当然か。 

 けれど、陽だまりのようなあたたかい匂いがする。きっと作られたものではない、彼自身の匂い。それにひどく惹かれてしまう。

「でんか」
 かろうじて、その言葉だけが喉からついて出て。

「オレのことは、これからヴィルって呼んで」

 こつん、と肩の上に頭が置かれる。首筋に触れる吐息が熱い。

「昔母さんが、そう呼んでくれてたんだ」

 彼にとっては、アンジェリカも母に近いようなものなのかもしれない。なにせ自分はおばさんだ。けれど、そんな大切な愛称を呼んでいいとは、思えなかった。

 ただ代わりに、広い背に腕を回して抱き締め返した。
 宥めるようにその髪に触れる。鮮やかなシルバーブロンドはさらりとした手触りで、手のひらを流れていく。

 すすり泣きの声が宵闇に吸い込まれていく。広い背は、時折震える。

 自分に弟はいない。
 けれど、いたらこんな感じだったのだろうかとそんなことをずっと考えていた。

 そのままヴィルヘルムが眠りに落ちるまで、美しいシルバーブロンドをただアンジェリカは撫でていた。
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