「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 婚約したのはいつだったのかも覚えていない。それぐらい幼い頃だったと思う。

 ファーレンホルスト王国とアンジェリカの祖国ブロムステットは、和平のために王太子と王女の婚約を結んだ。所謂政略結婚である。

「はあ」
 アンジェリカは窓際に頬杖をついて盛大に溜息を吐いた。

「どうされました、姫様。そんなに溜息を吐いたら幸せが逃げますよ」

 侍女のクレアが言う。彼女はブロムステットから唯一ついて来てくれた者で、今もアンジェリカを姫様と呼んでくれる仲である。

「どうもこうもないわよ。これ以上逃げるものもないわ。どんな幸せも、裸足で駆けてった後じゃない」

 だからつい、こんな物言いが口を吐いてきてしまう。

「ヴィルヘルム殿下は立派なお方ではありませんか」
「誰も、立派ではないとは言ってないわ」

 ひとつに束ねた長めのシルバーブロンドに、灰青色の瞳。
 切れ長の目元は涼やかで、ひどく端整な顔立ち。

 加えてこの国随一というほどの強い魔力で風の魔法を自在に操る。剣技にも優れているようで、腰にはいつも使い慣れた長剣を佩いている。柄に一つ鮮やかな青い石が輝いているのが印象的だった。

 それが、ヴィルヘルムだ。

 一目見た時、その姿から目が剥がせなかった。当時十八のアンジェリカには、ヴィルヘルムはまるで物語の中から飛び出してきたかのように思えたほどだ。

「殿下は、そろそろお着きになられた頃でしょうかね」

 クレアはアンジェリカの悪態を聞き流し、テーブルにあたたかな茶を置いてくれる。

「そうね。着いたんじゃないかしら」

 どんなに目を凝らしても、かの辺境の地は見えない。ヴィルヘルムはそこで、国境付近に出没する魔物を退治するのだという。

 会ったこともない相手に嫁ぐ。この時代ではままあることだ。

 それでも幸せになれる夫婦はいるらしい。結婚式でヴェールを上げたところを見て一目惚れするとか、ないわけではない。

 見目麗しく武芸にも優れた夫は、一度たりともアンジェリカを求めたことはない。嫁いで来てから四年、アンジェリカとヴィルヘルムの間にあったのは白い結婚だ。

 あの目はアンジェリカに向けられたことはない。多分、これからもきっとそれはそうだろう。

 ただ、自分はそちら側ではなかったというだけの話なのだ。
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