「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「あ」

 惚けた顔を隠そうと俯いたら、ぽつんと残された人参に目がいった。きれいに片付けられた皿の上で、それだけが浮かび上がるようにしてある。

 アンジェリカが顔を上げると、ヴィルヘルムはそっと隠すように皿をテーブルの隅へと押しやる。

 間違いない、これは分かっていてやっている。きっと、きらいなのだ。

 ヴィルヘルムにきらいな食べ物があるだなんて、アンジェリカは露ほども考えたことがなかった。

「殿下」

 言外に圧を込めて言ってみても、十六歳はどこ吹く風だ。

「きちんと全部食べないと、大きくなれませんよ」
「いいじゃん、別に。オレもう大きくなれたし」

 ふってわいたように都合よく二十八歳の体を手に入れた彼はそう言って、頭の後ろで手を組んでみせる。

「健康のためにも、好き嫌いをしてはいけません」
「なんだが、母さんみたいだな」

 我ながら、さすがにこれは口うるさい母親のようだとは思ったけれど。二の句が継げなくなって、アンジェリカは押し黙る。

「じゃあさ、アンが食べさせてよ」
「はい?」

 追いやられていた皿がぐいっと差し出される。

「アンが食べさせてくれるなら、ちゃんと食べる」

 王宮の食事にふさわしく、美しくシャトー切りにされた付け合わせの人参。グラッセされたそれは、皿の上でつややかに輝いている。

「でも」

 ヴィルヘルムがしたようなことが、自分にできるとは思えなかった。控えの者もこんなに大勢いるのに。

「だから、誰も見てないって。な? グレン」

 振られたグレンは後ろを向いたまま、こくこくと頷く。

「はい、見ておりません。神と殿下に誓って、私は何も」
 律儀な侍従は両手で目まで覆う始末だが、直視されるよりも余計に恥ずかしいのはなぜだろう。

 代わりに、切れ長の目は訴えるようにじっとこちらを見ている。また、断れなかった。

「分かり、ました」

 意を決して右手でフォークを取り、人参を突き刺す。左手を添えて、それをヴィルヘルムの口元へと運んだ。彼はぱくりとそれを頬張ると、ひどく満足げに微笑んだ。

 部屋に戻ってからもクレアはずっとにこにこと微笑みを絶やさなかった。

「何か言いたいことがあるんじゃない?」
 そう訊ねても彼女は、「いいえ、何も」とはぐらかすばかりだった。
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