「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「あの」
「なに?」

 アンジェリカを抱えたまま、夫は廊下を歩いていく。

「お、下ろして、ください」

 その腕から逃れようと手足を動かしても、しっかりとした男の腕はびくともしなかった。ヴィルヘルムは悠然とアンジェリカを抱え直すだけだ。

「いいの? みんなまだ、見てるよ?」

 確かに、控える女官や近衛たちも、食い入るようにこちらを見つめている。驚いたようにはっと口を押える彼女たちは、酔いしれるようなうっとりとした目をしている。

「立ち居振る舞いがだいじ、なんだよな?」

 灰青色の瞳は、どこか自慢げにそう言い放った。間違いなく自分が言った言葉だった。それはそのまま、アンジェリカ自身を縛る。

 皆、アンジェリカが見たのと同じ物語を夢見ている。これは多分、このまま夢を壊さない方がいい。

「……あの、重たくないですか?」

「あんた本当軽いよな。やっぱりもうちょっとちゃんと食事した方がいいよ」

 ちらりと、ヴィルヘルムはアンジェリカを見遣る。その間も立ち止まることはなくて、長い足は颯爽と廊下を歩いていく。

 こういう時はどうするのが正解なのだろう。

 アンジェリカは夫の腕の中でちんまりと身を固くした。鍛えられたその身と自分の体が、ぴたりと密着する。

「気になるなら、どっか適当に手置いて掴まって。その方が落とす心配がないから楽」
「わかり、ました」
 
 すっと伸びた首筋に触れてみる。指先にじんと確かな熱を感じた。皮膚を一枚隔てた下で、脈打つ鼓動を感じる。

 己の全てを委ねて夫に身を任せることができれば、どれほど幸せかとよぎった。
 けれどだめだ、このまま首に手を回すだなんて、とてもとてもできそうにない。

 仕方なく、そっと肩に手を置いた。しっかりと大人の広い肩だった。
 ヴィルヘルムはもう何も言わなかった。
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