「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 根拠があったわけではない。けれど、その広い背を見て唐突に感じたのだ。
 一歩足を進めて前に出る。毅然とした相貌が崩れて、途端に少年の面影が覗く。

「アン、一体何のつもりだ」

 ヴィルヘルムは眉を顰めて後ずさった。詰めたつもりの距離が、また開く。

「人質は、一人より二人の方がよいのではないでしょうか」

 アンジェリカは顔を上げて真っ直ぐにヴィルヘルムを見つめた。歩を進める度に、靴がしゃりっとガラスを踏みしめる。
 王女でありたいと思ったこともないし、正直かの国が自分にそこまでの価値を見出してくれるとは思えない。けれど、今だけはこの生まれに感謝しておこう。

「わたくしはブロムステット王が三女、アンジェリカです。わたくしに何かあれば、祖国は黙っていないでしょう」

 そして、アンジェリカに他に差し出せるものもなかった。

「いかかでしょう? わたくしでは、至りませんか?」

 あとははったりだ。自分の要求を飲ませるためには重みがいる。アンジェリカは、手近なガラスの欠片の一つに手を伸ばした。

 けれど、触れると思った指先はガラスには触れなかった。

「おいっ」

 代わりに男の手が、アンジェリカの手に触れている。まだ血の流れる大きな右手。ぽたりと、また血が床に落ちる。

「怪我でもしたら、どうするんだよ」

 とんでもないことのように、ヴィルヘルムが言う。自分だってその手を怪我しているくせに、アンジェリカのことはそんな風に窘めるのだ。

 けれど、こうなってしまえば、こちらのものだ。

 アンジェリカはその手をぎゅっと握った。
 わたしはもう、この手を離す気はない。

 その意を込めて長身を見上げれば、

「分かったよ。あんただけはここにいて、いい」

 降参したようにヴィルヘルムは頭を振った。その仕草は十六歳の彼にしてはひどく大人びたように見えて、二十八歳にしては子供じみてる。

 揺れた銀髪がはらりと光の粉を孕んだように輝くのを、アンジェリカは今までで一番近くで眺めていた。
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