「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 けれど、売られた喧嘩をそのままにしておくわけにもいかない。文句を言うためにも、この木を登ってしまう必要がある。

 どうか誰にも、こんな姿を見られませんように。

 アンジェリカは心の中でそう小さく祈ってから、ヴィルヘルムがしたように木の幹に触れた。

 それから一番手近な枝に手をかけた。

 次は、彼はどうしていただろう。頭の中でそれをなぞるようにして、また枝に手を伸ばす。

「なんだ、うまいうまい。そう、次はそっちの枝だよ」

 さて、喧嘩を吹っかけてきた張本人は枝の上に腰を下ろしたかと思うと、時折そんなことを言う。これでも応援してくれているつもりらしい。

 ただ中ほどまで上ったところで手が疲れてきた。体力のなさを突きつけられるようだった。

 どうしよう、と一瞬目線が下に行ってしまった。

 思っていたよりも、高いところに自分はいる。それを実感したら目が眩むような心地がして、アンジェリカは咄嗟にぎゅっと目を瞑った。

「アン、目を開けて」

 やさしい声が木漏れ日のように降り注ぐ。

「木登りのコツは二つだけ。一番近くの枝に手を伸ばすことと、絶対に下を見ないことだ」

 促されるがままにゆっくりと目を開けた。そして、目に見える一番近くの枝に右手を伸ばした。僅かにしなるような感覚があるが、心細くはない。そのまま、その枝を頼りにして体を持ち上げて、左手でまた違う枝に手を伸ばす。

「やるじゃん」
 投げかけられる声は幾分か弾んだものになる。あとは無心で、手足を動かした。

「あっ」

 枝に掛けた足が滑って声が漏れる。片足ではもう、踏ん張りが利かない。
 落ちる、と思ったところで、ぐっと引き上げられた。

「おめでとう。ちゃんとできたね」

 確かな男の腕に抱き止められて、木の枝の上に下ろされた。汗ばんだ肌を風が攫っていく。

「結構いい眺めだろ」
「はい」

 毎日を過ごす王宮も庭園も、眼下に見える。白い尖塔が日の光を受けてきらきらと輝いている。遠くの噴水は静かに水しぶきを上げていた。

 こんな景色、はじめて見た。
< 48 / 94 >

この作品をシェア

pagetop