「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 それは心の底からのアンジェリカの叫びにほかならなかった。こんな風に声を上げたことなんて、今までなかったのに。

 くしゃりと、端整な顔が歪む。わしゃわしゃと前髪を掻き上げれば、十六歳の影が色濃く表れる。

「ああ、もう本当、わけわっかんないな」

 抱えたままだったアンジェリカを、彼はぎゅっと抱き寄せた。首筋をさらりとした銀髪がくすぐる。すべらかな頬が、ぴたりと触れる。

「なんでオレ(・・)、こんないい奥さん大事にしなかったんだろ」

 問われても、アンジェリカには分かるはずもない。そのままヴィルヘルムは、天を仰いで息を吐いた。

「オレ、つまらないやつだからさ、またあんたにつらい思いをさせるかもしれない。でもさ、十六のオレがこんなにいい男なんだから、二十八のオレももっといい男だよ」

 その時、己はそこにいないとヴィルヘルムは知っている。だからこんな物言いになる。

「何回だって、あんたのこと、好きになるよ」

「そんなの、分からないじゃない!」

 よぎったのは母のことだった。愛だけに縋って全てを失った、無様な女。
 未来に何が起きるかなんて、分からない。もう捨てられるのも、一人になるのも嫌だった。

「一緒にどこか、遠くへ行きましょう。そうすれば魔物のことなんて気にしなくてよくなるわ。そこで小さな家を借りて二人で暮らすの。どうかしら?」

 嘘のようにすらすらと口から言葉が出てきた。そしてそれは存外悪くない気がしてくる。もっと早くそうしておけばと思えるくらいに。

 そうだ、全部放り出してしまえばよかったのだ。
 わたしを大切にしてくれなかった国も人も、何もかも。

「わたし、料理もちゃんと勉強するわ。縫物は……刺繍を習っていたからきっと大丈夫。最初は大変かもしれないけど、きっとうまくいくわ」

 そうして、この人だけを抱きしめて暮らすのだ。
 そのことの何がいけないのだろう。誰にも文句は言わせない。

 けれど、ヴィルヘルムは決してうんとは言ってくれなかった。

「分かるよ」

 ふっとヴィルヘルムは笑みを浮かべて言った。それは、風が吹けば飛んでしまいそうなほどささやかな笑みだった。
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