「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「だって、オレなんだもん。だから、分かる」

 いつかのように、こつんと額を合わせて見つめ合った。すぐそこで銀色の睫毛が震えている。

「ねえ、記憶が戻ったオレに会ったらさ、最初の一回だけでいいから『ヴィル』って呼んで」

 縋りつくように抱きしめるその腕の力が強くなる。そこではじめて、アンジェリカ一度たりとも彼が望んだ名では呼んでやらなかったことに気が付いた。

「そしたら、きっと大丈夫だから。ちゃんと、会いに行くから。一目散に走っていくから」

 そぐわないとか荷が重いとか理由を付けて、結局のところ自分はこの夫と向き合えていなかったのかもしれない。

 だから、また失うのだ。その分の落とし前を、支払うのだ。

「大人になったら、存分にイチャイチャさせてもらうよ」

 大きな手は乱れたアンジェリカの髪を梳いたかと思うと、そのまま頬に触れた。

「はじめてするなら、好きな人とだって決めてたんだ」

 そうだ。最初にキスした時ヴィルヘルムはそう突っぱねた。けれど、これはあれとは違う。

 あの時、魔術師団長は「愛する者の口づけ」と言った。
 この口づけはきっと、呪いを解いてしまう。

 だってこの今、アンジェリカは確かにヴィルヘルムを愛している。

「まって、あの、」

「だから、オレはあんたでよかったよ」

 わたし、まだあなたと何も話せてない。言いたいことが沢山、あったのに。

「じゃあ、またね。アン」

 最後の最後は、おばさんでもあんたでもなく。
 声に滲んだ愛おしさのようなものにぎゅっと心臓を掴まれたようになる。

「だいすきだよ」

 ふわりと笑ったかと思えば、ヴィルヘルムはアンジェリカの口を塞いでしまった。驚いた吐息ごと、全部奪われた。

 ああ、とうとうまともに名前を呼んでやることすらできなかった。

 触れる唇の柔らかさに酔いしれる。互いの境界線が曖昧になるような口づけ。

 霞がかかったようにぼんやりとしていく頭の片隅で、この人を愛さなければ、わたしはこの人を失わずに済んだのだろうか、とどうしようもないことを考えた。

 他人の心は永遠に目に見えない。
 結局のところヴィルヘルムがアンジェリカのことをどう思っているかなんて、たとえその肉を切り裂いてみても分からない。

 それでも、己が消えてしまうことすら厭わずに誰かを守りたいと思えるのならば、それを愛と呼んでもいいのではないかと思った。

 アンジェリカが知覚できたのは、そこまでだった。
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