「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 ひらりと銀髪が流れて長身が屈んだ。吐息が耳元を掠めて、びくりと肩が震える。

「私は、何も覚えていない」

 他の誰にも聞こえないように、潜めた低い声が囁く。金縛りに遭ったかのように、微動だにできなかった。

「何も変わらない。全ては元通りだ」

 腫れた足首に触れたあの手も、交わした言葉も。
 彼は、十六歳に戻っていたあの時間のことを覚えていないのだろう。

 覚えているのはアンジェリカ、ただ一人。

 香るのは、あの、冷たく凪いだ香り。
 唐突に感じた。これは、拒絶の匂いだ。

 手を伸ばすことも声を掛けることも、できなかった。

 このまま彼は通り過ぎていく。そう思った時だった。

「へ」

 きゅっと、手を握られた。十六歳のヴィルヘルムがよく、アンジェリカにそうしたように。
 しなやかな指が、何かを探すように絡められる。

 見上げれば、ヴィルヘルムは灰青の瞳をぱっと見開いた。ゆっくりと確かめる様に瞬きをする。そうしてしまったことに、彼自身が一番戸惑っているように。

「でんか……?」

 その体温を感じるよりも早く、夫の手は離れた。

「君も早く、忘れるといい。あれは夢だったのだと」

 それだけ言い放って、ヴィルヘルムはまた歩いていく。広い背は全てを拒むように、そこにすっくと立っている。

 大きな手は強く強く握りしめられていた。覚えていないというのは、嘘ではないのだと思う。
 そこでアンジェリカは思う。

 流れた時間を自分のほかの誰とも分かち合うことができないのなら、それは目を閉じてみる夢と何が違うのだろうかと。
< 62 / 94 >

この作品をシェア

pagetop