「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「あ」

 ヴィルヘルムが颯爽と降りてきたあの木。その幹をそっと撫でた。
 だからといって、何があるわけでもない。木は木としてそこにあるだけだ。

 ――木登りのコツは二つだけ。

 そう言った快活な声が蘇る。今のヴィルヘルムはこんな声で話したりはしない。上質な天鵞絨(ベルベット)のような低い響きは、ただ流れていく。

 ――一番近くの枝に手を伸ばすことと、絶対に下を見ないことだ。

 そうだ。ヴィルヘルムはそう言ったのだ。

 ちゃんとあるじゃないか、ここに。
 たった一つ、巻き戻らなかったもの。

 アンジェリカはさっと靴を脱いだ。続けて、絹の靴下もするりと脱ぐ。

「ひ、姫様!?」

 クレアが素っ頓狂な声を出すのが聞こえた。けれど、アンジェリカは止まらなかった。そのまま、木に手をかけた。

 わたしはもう、あの人と出会う前のわたしではない。わたしだけは、そこへは戻れない。

 枝に手を伸ばしながら、思い出す。

 迷いなくガラスに手を伸ばしたあの大きな手。ヴィルヘルムは、己を懸けて自分に関する真実を手に入れてみせた。

 同じことを、やってみようと思った。元より、アンジェリカに懸けられるものなんてこの身のほかにない。

 何もない、アンジェリカの部屋。ヴィルヘルムが殺風景だと言ったあの景色。
 そこにずかずかと飛び込んできた、あの男。招き入れたつもりなんて、なかったのに。

 ぐっ、と枝を掴んで体を持ち上げる。
 力仕事をしないやわらかな手に痛みが走る。

 けれど、ヴィルヘルムはこの手を取ってくれた。頭では覚えていないのかもしれないけれど、彼の体には何かしらが残っているのかもしれない。

 太い枝の上にアンジェリカは立った。見下ろせば、木の根元でクレアがただおろおろとしていた。何度か、叫ぶようにして自分のことを呼んでいる。

「クレア。こちらに、ヴィルヘルム王太子殿下をお呼びして」

 責任を取ってもらう。あんなキスだけして、いなくなるだなんて許さない。
 人の心に勝手に入ってきた責任の重さを、思い知ればいいのだ。

「わたしは殿下以外とお話する気はないわ」
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