「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 クレアはしばしの間呆然としていた。けれど、アンジェリカが一歩も引かずに本気だと分かったのか、弾かれたように駆けて行った。

 ヴィルヘルムはすぐに、護衛とともに現れた。

「どういうことだ、これは」

 連れられてきた端整な顔には戸惑いが浮かんでいる。その銀色の頭を見つけて、アンジェリカは心を決めた。

 か細いか細い、一本の糸。わたしとあの人が一緒に過ごした、短い時間。

 アンジェリカの部屋に飾られているリラの花は、まだ美しかった。だから、あれは前に十六歳の彼がくれたものとは別物だ。

 あの花の咲いている場所を知っているのは“ヴィルヘルム”しかいない。間違いない、ちゃんと十六歳のヴィルヘルムの延長線上に、今の夫はいるのだ。

 五枚の花びらのリラは幸せのお守りだと、ヴィルヘルムは言った。

 だとしたら、今の彼も願ってくれるのだろうか。
 わたしの幸せ、とやらを。

 どれほど微かでも、それに縋るしかない。

 わたしは、あなたが咲いていたことを忘れない。

「ヴィル」

 名前を呼んだ己の声が震えていたのが分かった。夫に聞こえていたのかは、分からない。

 この身一つで一体どれだけのものに手が届くかは分からない。けれど、これで無理ならもう、アンジェリカの愛した男はこの世にはいないのだ。あのヴィルヘルムの中、それ以外は。

 それならもう、何も惜しくない。

 賭け金はこの愚かなわたし。あなたがすきだと言ってくれた、わたしだ。

 それを盾にわたしは望むものを手繰り寄せてみせる。
 自分の使いどころは、自分で決める。
 わたしはもう、誰かの駒じゃない。

「わたしは、国には帰りませんっ!」

 強くスカートの裾を握った。素足に、樹の皮のざらりとした感触が触れる。そのままその枝を強く蹴ってアンジェリカは木の上から飛び降りた。

 遠目から見ても、灰青色の目が大きく見開かれたのが分かった。

 茶色の髪が上へと流れていく。耳の後ろで、どくどくと脈打つ己の鼓動を感じる。

 スカートは大きく広がって、ばたばたと風にはためいた。ふわりと、腹の中が浮かび上がるような心地がする。

 アンジェリカは、地面に叩きつけられる予感にぎゅっと目を瞑った。

「アンっ!!」

 ただ、真っ暗な闇の中で鋭い声が自分の名を呼んだ気がした。
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