「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 訪れると思っていた痛みは、いつまで経っても訪れなかった。

「怪我は!?」
 呼ばれて肩を揺さぶられて、目を開ける。

「は、はい?」

 我が身は、地面に激突することなくここにある。見たところ、大きな怪我はないと思う。

「怪我はないかと聞いているんだ」

 灰青の瞳にはいつにない焦りが滲んでいる。アンジェリカと一緒に落ちてきたのだろう、輝くばかりのシルバーブロンドにいくつもいくつも、木の葉が落ちている。

 ヴィルヘルムが自分を受け止めてくれたのだと、そこでやっと気が付いた。

「ありません」
 背中に回された男の腕に、ぎゅっと力が込められる。

「よかった……」

 首筋に頬が寄せられる。高い鼻梁が肌を掠めて、ヴィルヘルムはアンジェリカの肩に顔を埋めるようにする。それはまるでアンジェリカの存在そのものを確かめるように。

 隙間ないほどに強く抱きしめられる。いつも遠くに感じていた、深い森の奥のような静謐な香りに包まれる。

 こんな風にされたことなんて、なかったのに。

「どうしてこんなことを、したんだ」

 くぐもった声が糾弾するように言う。どうしてと言われても、

「全部あなたのせいじゃないですか」

 ついそう零してしまったら、ヴィルヘルムは顔を上げた。形のいい眉を顰めてみせる。

「俺が、一体何をした」

 その言い方は、いつもの彼とは異なっていた。

 いつも上辺を撫でていくだけだった声に、確かな焦燥が宿っている。そして、苛立ちを隠さないままに軽々とアンジェリカを肩に担ぎ上げた。

「ひゃっ」

 一度ちらりと振り返ったかと思うと、ヴィルヘルムは何かを示すように顎をしゃくって見せた。すると、立ち尽くしていたクレアがはっとして、木の根元に置かれたアンジェリカの靴を取り、慌てて後に続く。

 そのままヴィルヘルムはずんずんと長い足を使って歩いていく

「あの、わたし歩けます」

 じたばたと手足を動かしたら、灰青の目は鋭くなってアンジェリカを見た。

「落とされたくなかったら大人しくしていなさい」

 もっとも、アンジェリカの力では振り解けないほど強くその腕に捕らえられている。

 恭しく抱えられるよりも、荷物のように抱えられる方がなんだか気安い気がする。それほど余裕がないのだけなのかもしれないが。

 連れて行かれたのは、ヴィルヘルムの部屋だった。
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