「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 こちらも、入ったことなど一度もない。どこにあるかだけは、かろうじて知らされていたけれど。

 アンジェリカを抱えたまま、片手で器用にヴィルヘルムは扉を開けてみせる。
 手近な椅子にアンジェリカを下ろしたかと思うと、彼は控えていたグレンに命じた。

「出来るだけ早く湯と、あと何か布を持って来てくれ」

 長く仕えていた侍従であっても、その意図を一瞬では理解できなかった。

「殿下……?」
 聞き返したグレンに、ヴィルヘルムの冷たい声が飛んだ。

「早く、と言ったのが分からなかったのか?」

 灰青の瞳がまるで睨み付けるようにすれば、侍従は弾かれたように駆けて行く。

 アンジェリカはこのやり取りの全てに既視感があった。この後、ヴィルヘルムがどうするかも、察しがついた。

「ありがとう。全員、下がっていい」

 案の定、ヴィルヘルムはそう言った。
 はっ、とクレアが息を呑んだのが分かった。

 いち早く事態を理解したクレアがそっとアンジェリカの靴だけを置いて部屋を後にして、それに何かを感じたのか、グレンも続いた。

 残されたのはアンジェリカとヴィルヘルム、二人きりである。

 どうしていいのか分からなかった。

 失礼にならない程度にちらりと辺りを見渡せば、自分の居室ほどではないが、王太子の部屋とは思えないほどに質素だった。

 重厚な家具と政務に必要であろう本と。彼自身を象徴するような、飾り気のない部屋だった。
 ただ机の上に、くしゃりと丸められた紙が置かれている。捨てればいいのに、彼はそうしなかった。

 整然とした部屋の中でそれだけが異質に見えて、ひどく居心地が悪くなる。まるで、見てはいけないものを見てしまったような。

 目を伏せれば、己の手に傷やら血やらが滲んでいた。

 飛び降りた時に枝にいくつかひっかけたのだろう。スカートは中途半端にまくり上げられていて、ところどころに破れて見るも無残である。

 少しでも隠すように、アンジェリカは膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

 ヴィルヘルムは、アンジェリカの前に跪く。

 ここまでは、記憶の中と変わりなかった。

 ただヴィルヘルムはそのままぴたりとも動かなくなった。それはずっと眺めていたいほど美しかったけれど、整った相貌はもはや彫像のようで、何を考えているのか底知れない。
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