「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「あんな顔をしている君を、はじめて見た」

 わたしだって、そんな拗ねた声をはじめて聞いた。

 これで終わりとばかりに、ヴィルヘルムはぼろぼろになったスカートを丁寧に下ろした。そんなことをしてももう、このドレスが元に戻ることはないのに。

「けれど、君が好きなのは()じゃない」

 もう一度、ちゃぷんと水音がした。

 使い終わった拭き布が、湯をたたえた桶に吸い込まれるようにして沈んでいく。空いた右手をヴィルヘルムはぎゅっと握りしめた。

「あれは俺じゃない。俺は、“ヴィル”じゃないんだ」

 長身がすっと立ち上がり、アンジェリカを見下ろす。

 ヴィルヘルムの手は肩に降りる。そのまま強く掴まれた。乱れた髪が梳かれて耳にかけられる。露わになった耳朶にヴィルヘルムは囁いた。

「俺の方が先に、君に出会ったのに」

 掠めた吐息に火傷するかと思った。

「君を最初に抱きしめたのも」

 顔を上げれば流れた銀髪の間から、灰青の目が覗く。
 ぎらぎらした、燃えるような目だった。

「君に最初にキスしたのも」

 長い指は咎める様にゆっくりと唇をなぞっていく。ヴィルヘルムが触れたところが火を灯されたように、熱くなるのを止められない。

「どうして、俺じゃないんだろう」

 男の腕はアンジェリカを閉じ込めて、逃さないとばかりに強く抱きしめた。

「あの、」

 広い背に腕を回そうとしたら、ヴィルヘルムが首を横に振った。

「俺は、これを手放せない。これからもずっと君を縛る。だから、君を国に返そうと、思うんだ」

 上がった体温がすっと冷えた。アンジェリカの手は半端に宙に浮いたままになる。

「育った国なら、君も安心だろう。存在しない男のことなんか、忘れて、国元で自由に生きてほしい。この国に無用に縛られていることもない」

 ああ、どうして。
 どうして、こんなにも、勝手なのだろう。

 この勝手さこそがそっくりだった。記憶がなくても、唐突に理解した。

 わたしに何の断りなく、消えてしまった“ヴィル”。今目の前にいるのが、その人だと。

 いつもそうだ。
 この人は全部一人で決めてしまう。わたしの想いも何もかも、置き去りにして。

「きっと、それが一番君も幸せになれる」

 アンジェリカを抑えつけていた何かが、木から飛び降りた時でもかろうじてまだ残っていたそれが、弾け飛んだ気がした。

 変わらず飾られていたリラの花。その花が、ずっと頭の中で揺れている。

「幸せって、なんですか」
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