「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 だとしたら、アンジェリカが“ヴィル”を愛したことは誤算だったのかもしれない。
 
「わたしは、お兄様を好きになりたいわけじゃ、ありません」

 それでも、か細い糸は繋がっていたのだと思う。

 深く息を吸えば造り物の整った香りの向こうに、あたたかな陽だまりと風の匂いがする。ずっと探していた体温の匂い。

 誰も別人になんてなれはしない。ちゃんとあの“ヴィル”の先に今のヴィルヘルムがいると信じられる気がした。

 そうだ、何度生き直したって、きっとここに辿り着く。あなたがあなたであるという、たったひとつに。

 彼は何も答えなかった。代わりに、背中に回された腕の力が強くなった。

「分からないなら、探してくれませんか」
 問い掛ければ、夫は静かに顔を上げた。

「何が幸せかを、わたしと一緒に探してください」

「いいのか、俺で」
 アンジェリカはそれに微笑んでみせる。

 わたしが愛したのはこの、十六歳のあなたから二十八歳のあなたに続く時間の連なりだ。

「わたしはずっと、あなたのことがすきだって、言ってるんですよ」
「ああ」

 短い返事の後に、すらりとした指先が掬い上げるように顎に伸びてくる。
 灰青の目と見つめ合った。視線が絡み合えば、何をしようとしているかは訊ねるまでもない。

 これは呪いを解くためでも、永久の愛を誓うためでも、何でもない。けれど、夫婦であるのなら何もおかしくはないのかもしれない。

 ぴたりと頬を合わせれば、吐息が混ざり合って眩暈がするほどだった。

 白銀の長い睫毛が伏せられていくのを、永遠のように長く感じた。世界の音が一つずつ遠ざかっていって、満ちるのは苦しいばかりに高鳴る己の鼓動だけになる。

「ずっと、こうしたかった」

 やり直すのでも、巻き戻すのでもない。
 もつれて絡まって、また解いて。けれど、途切れず続いていく。

 最初からこんな風にはじまっていたのだと、アンジェリカは思う。
 憧れた物語は、ちゃんとここにあったのだ。

「わたしもです」

 アンジェリカもゆっくりと目を閉じる。

 そして、一呼吸のちに夫の唇が唇に触れた。
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