「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 それでも、毎日は過ぎていく。

「あのさ」
「なんでしょう、殿下」

 灰青色の瞳が、不機嫌そうに細められる。

「なんで、ずっとオレと一緒にいるの、おばさん」

 ヴィルヘルムが見た目はそのままに中身だけ若返ってしまったなどということは、ごく限られた人間にしか知らされていない。

 加えて、彼は全くと言っていいほど魔力が使えなかった。

『え、今のオレそんなに強いの?』

 力が失われたというわけではなく、単純に十六歳の彼と二十八歳の彼の鍛錬の記憶の差のようだった。今のヴィルヘルムは魔法の使い方を知らない。

 片手を振るだけで敵陣を吹き飛ばすと言われたほどの魔力はすっかり成りを潜め、今やつむじ風を起こすこともままならない。
 ヴィルヘルムはただ大きな自分の右手を見つめて、ぽかんとするばかりだった。

 そんなことが近隣諸国に知られたら大事だ。この機に攻め込まれかねない。絶対に隠し通さねばならなかった。

 けれど、ヴィルヘルムはここ十二年の間に起きたことを何も知らない。だからその傍らで彼をそれとなく補佐する人間が必要になってくる。
 今その役目に就いているのがアンジェリカだった。

「その呼び方、やめていただけませんか」

 何せ、自分は王太子妃である。常にヴィルヘルムとともにあっても、何の問題もないのだ。むしろ仲睦まじいと思われて好都合かもしれない。

 ちらりと窺うように切れ長の目がこちらに向けられる。

「ねえ、あんたさ。前もオレのことずっと“殿下”って呼んでたの?」
「ええ、そうですが」

 だって、ヴィルヘルムは夫である前に王太子殿下だ。妃であるアンジェリカも敬うべき対象である。
 だから、この呼び方には何ら問題はないと思う。

 もっとも、このヴィルヘルムはそうは思わなかったのかなんだか怪訝そうな顔をしている。

 人の雰囲気というのは顔かたちではなく、浮かべている表情でこんなにも変わるのだということをアンジェリカは嫌でも思い知った。

「じゃあオレはさ、前はあんたのこと、なんて呼んでた?」

 問われてはじめて考えた。

「えっと……」

 夫は、アンジェリカのことをなんて呼んでいただろう。

 二十八歳のヴィルヘルムは、とかく口数が少なかった。こんなに気安く喋りかけてくることはなくて、大体の場合、彼は怜悧な顔をして座っているだけだった。たまに口を開いたかと思えば、素っ気なく「君」という二人称で突き放された。

 そもそも二人きりで話すことなど、数えるほどしかなかった気がする。

「アンジェリカ、と」

 だからこう答えたのは、事実というより自分の希望に近い。
 普通の女のように、夫から名前を呼ばれたてみたかったという、そんな。

「ふーん」

 けれどそんなこと、目の前の子供には何も関係のないことだろう。彼は頭の後ろで手を組んで興味がなさそうに呟いただけだった。
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