「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
「あーーーもう自分がいやになる」

 ヴィルヘルムはたまらず椅子から降りて、床に寝っ転がった。妻にも侍従にも間違いなく叱られる振る舞いだが、まあ今は一人なのでいいだろう。

 床には無数の書き損じの便せんが散らばっている。広げてみたが、どれもこれも紙くず同然でばかみたいなことしか書いていなかった。

 本当に手紙を残すとしたら、アンジェリカはその後、これを何度も読み返すことになるはずだ。

 例えば、覚えていてくれと言えば、アンジェリカは死ぬまで自分を覚えていてくれるだろう。
 けれど、たとえ忘れてくれと書いても、彼女は自分を忘れられないだろう。

 ヴィルヘルムが愛しているのはそういう、アンジェリカだった。

 どちらにしても彼女を苦しめることはあれ、救うことはない。

 どんなことを書いても笑って読んでくれる妻を想像することはできなかった。だとすれば、残るものなんて何もない方がいい。

 いなくなる方は、さっさと消えてしまう方がいいに決まっている。

「背が高くて落ち着いてて、ちゃんとリードできる大人の男になりたかったな……」

 それはそのまま、アンジェリカと一緒に年を重ねたいという、ヴィルヘルムの願いだったけれど。

 呟いてしまってから、また、はたと気が付いた。

 もう一度、天井に向かって手を伸ばす。やはりこの手は、記憶の中よりずっと大きい。
 なにせ、この身は二十八歳である。まごうことなき立派な大人だ。

 そして一応、ヴィルヘルムは「冷静沈着で頭脳明晰な完璧な王太子」ということになっているのだ。半分は理想を手に入れている。話は早い。

 なんとかすべきは妻ではない。オレ(・・)の方だ。

 ヴィルヘルムは、見えない何かを掴み取るようにぐっと手を握りしめた。

 白い結婚について、向こうにも言い分はあるのだろう。けれど、それはヴィルヘルムの側の事情であって、アンジェリカを蔑ろにしていい理由にはなりはしない。

 そして、真の意味でどうして己が若返ったのかが、分かった気がした。

 全てはもう一度、まっさらな自分でアンジェリカと巡り合うため。
 そうやって、また彼女と出会うためだけに今の自分はいたのだ。

 それさえ分かればもう、何も恐ろしくはなかった。先の見えない世界にぱっと光が差した気さえした。

「よし」
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