10分間からはじまる
恋を感じる 10分間のコーヒータイム
交際相手を刺してしまい、警察から逃れるために辺鄙な土地の旅館にやってきた。
どんな理由であれ、人を刺してしまうなんて、いけないことだとはわかっている。
でも、刺さなければ、私に自由はなかった。
この近くには自殺で有名な崖がある。
その崖で自殺をしようと思ってここにたどり着いた。
私の住む県内でも最北の山の奥にある古びた温泉旅館。
このまま生きていても、彼に復讐されるかもしれない。
警察に捕まって犯人とされるかもしれない。
生きていても、幸せなんてないような気がしていた。
彼との生活に疲れていた。
働かずお金を搾取され暴言と暴力だなんて、恋愛じゃない。
恋人という体のいい関係は違うと思う。
静かな秘湯は時間が止まっているかのような穏やかな空間だった。
鳥のさえずりが聞こえるあたり一面が森に囲まれた山奥。
旅館の従業員も閑散時はとても少ない。
客も私しかいないのではないかと思われる。
こんな静かな場所で暮らせたらいいのにと窓の外を眺めた。
この景色を写真に撮ってインスタに投稿した。
店長はネットに疎く、全て私が管理していた。
そして、極めつけはフォロワーが私と一条さんのみという事実。
この景色を見ただけでここを特定はできないと思われる。
一条さんは刑事ならば逮捕しにくるのかもしれない。
でも、ずっと逃亡できる資金もなく、いつかは特定されてしまう。
その前に今見ている景色をネットの世界に遺そう。
油絵で描いたような木々は美しい。
木々は四季折々の表情があり、終わりがないように思えた。
桜の花びらは近くで見ると散ってしまって残念な気持ちになる。
でも、遠くから見る山の景色は桜色から新緑の色に変化して美しさを保ち続ける。
蘭堂さんと出会った雨で散った桜を思い出す。
あれは、私と彼の関係を現わしているような気がしてしまう。
寒い時期である平日は人がほとんどこの温泉にはいない。
自分だけの世界のような錯覚に陥った。
自己満足かもしれないけど、これが遺書代わりだった。
秘湯につかり、最期の入浴を済ます。
罪を洗い流せないことはわかっている。
でも、みそぎのような私の中の儀式だった。
露天風呂は景色がどこまでも美しく、ただ広がる青空は最期にはふさわしいような気がした。
秘湯からの景色も写真に収め、投稿する。
どうせ捕まる前に死ぬつもりだったので、遺すつもりで投稿をしていた。
位置検索でバレてもいい。
もうすぐあの崖の下に行くのだから。
経済的にも暴力を受け、罵声を浴びせられる。彼からの直接的な暴力にも疲れていたのかもしれない。
温泉に長めにつかり、部屋に戻る。
夜ごはんを食べて、あの崖に行こう。
月明かりの下で暗い下に落ちよう。
そう決めてしまうとどこか心が軽くなった。
静かな月明かりが美しい夜。部屋のふすまが急に開いた。
思いもよらぬ来客がやってきた。
刑事の一条さんだった。相変わらずの着くずしたスーツで髪は風になびいたままのような急いできた様子だった。
旅館で自殺しようともくろむ私のところへやってきた一条さんは初めて私と本気で会話をしたように思う。
彼とはそんなに話したこともなかった。でも、いつもまっすぐな印象だった。
「あんた、死ぬ気か? 俺はちゃんとあんたに生きてほしいと思ってる」
「一条さんが何でここにいるの?」
驚いた私はそんな質問しか出てこなかった。
「実は以前フォローしたインスタのアカウントから写真を見てここだと思ってきた」
「なんでここがわかったのですか?」
「位置情報は調べればわかる。でも、ここは俺の生まれ故郷で、すぐに景色を見てわかった」
そんな偶然があるのだろうか。
一条さんの生まれ故郷がこの町だったなんて。
あのマスコットキャラクターはここの町のものだったのかと思う。
「私を逮捕するつもりですか? 私はもうここで死ぬつもりです」
自然と涙があふれていた。
私は本当に死にたかったのだろうか?
本当は生きたかったのではないだろうか?
暴力の支配から逃げたかっただけではないだろうか?
一瞬で自分の頭の中に色々な思考が混ざり合う。
本当の私は何を欲していたのだろう。
「俺は、この事件の担当刑事ではない。これは完全なる個人として動いている。あのカフェに通って1年経つけど、俺はあの店に救われた。あんたには不幸せになってほしくないから。死ぬな」
手を差し出される。
彼の瞳は美しく、正義感にあふれていた。
曇りのない瞳は今日の青空みたいだった。
私はどうして、こんなにもまっすぐな人に助けを求めなかったんだろうと思った。
こうなる前に相談できたかもしれない。
彼のような真面目な人ならば、力になってくれたのかもしれない。
更に涙があふれた。
「俺は客として、知り合いとして、少しでも力になりたいと思う。蘭堂は過去にたくさんの女性に暴行していた。被害届も出ている。蘭堂は無傷だし死んでいない。ナイフの件は正当防衛といえば、罪にはならない」
理路整然とゆっくり話してくれる一条さんの言葉は心強い。
こんなに人肌が恋しいと感じたことがあっただろうか。
涙が止まらなくて、彼の胸を借りた。
彼氏の胸にうずくまることもずっとなかった。
「どうか死なないでほしい。先程刑事内で連絡があったんだが、男は奇跡的に胸に入っていたここの町のキャラクターキーホルダーに救われたらしい。だから、彼は怪我すらしていないから安心しろ」
「でも、倒れていました」
「それは、あまりにもびっくりして、気を失っていたらしい」
沈黙が続いた。
私は殺人を犯してはいなかった。
そのことに安堵したけど、彼からの復讐が怖くなる。
「でも、なんであのキーホルダーを胸ポケットに入れていたのでしょうか?」
「おそらく、希少な限定生産ものだと知って、ネットで転売しようと思っていたんじゃないか。実際金を持っているマニアなら、高価な金を出してでも欲しいと思う人間はいるからな。お守りってのは事実だっただろ」
珍しくにこりとする一条さん。
「首を絞められたあとがあるな。蘭堂には殺人未遂の逮捕状が出るだろう。最近も他の女性に暴行した罪もあって暴行罪で起訴されている。一緒に警察署に行こう。俺が一緒に説明するから」
優しいまなざしだなと思う。
「わかりました。警察で事情を説明します。最後に一緒にコーヒーでも飲みませんか?」
部屋にあったインスタントコーヒーを淹れた。
私にとってコーヒーは人生の分岐点だ。
「最後になんて言うな。これから、また一緒に飲もう」
なんて温かい言葉を発してくれるのだろう。
コーヒーを二人で飲む。
飲みながら一条さんは話をする。
「最初は仕事でブックカフェに出入りしていた。でも、いつのまにか店のファンになっていた。本も品ぞろえがいいし、コーヒーや軽食の味も好みだった。店員の佐和さんの笑顔もいいと思っていた。だから、あの店に自然と足が向くようになったんだ」
笑顔もいいっていう台詞にドキリとする。
「実は蘭堂は殺人事件の犯人の可能性があって、動向を探っていたんだ」
「殺人事件?」
「蘭堂と以前付き合っていた女性が行方不明になっていて、死亡した状態で見つかった。彼が殺したのではないかと調べていたが、他の女性から暴行の被害届や佐和さんも暴力を受け、首絞められた跡もある。まずは逮捕できるから、そこから自白ルートだな」
「私、これからちゃんと生きられるでしょうか?」
「生きてほしい。だって、あの店がなくなったら困るし、俺は身元引受人として行くから。死なないでほしい」
「どうしてそんなに優しいんですか?」
涙がまたあふれた。人の優しさに触れただけでどうしてこんなにも涙もろくなってしまったのだろう。
「私、もしかしたら彼を殺していてもおかしくないんですよ」
「自分を守るためには犠牲を払わないといけないことだってあるんだよ。警察署へ行き、事情を話そう。正当防衛だと説明するんだ。一緒に行くよ。俺は待ってるから」
この人がいてよかった。
死ななくてよかった。
「ちゃんと警察署で話します。そして、私を待っていてください」
たった10分程度のコーヒーを飲む時間。
コーヒーをゆっくり味わって飲んだのはいつぶりだろうか。
インスタントコーヒーでも、飲む相手によって味が変わる。
彼のコーヒーを飲むペースが好きだ。
視線がコーヒーカップへ向かう時の前髪が好きだ。好きだという気持ちがそこに存在していた。
彼の隣が心地良いことに気づく。
激しい情熱とは違う、静かな心地よさ。
初めての感情。穏やかな気持ちになれる関係。
恋なんて形がなくて目には見えないものだけど、隣にいたい。
コーヒーを一杯飲む時間。私は新しい感情に気づいた。
どんな理由であれ、人を刺してしまうなんて、いけないことだとはわかっている。
でも、刺さなければ、私に自由はなかった。
この近くには自殺で有名な崖がある。
その崖で自殺をしようと思ってここにたどり着いた。
私の住む県内でも最北の山の奥にある古びた温泉旅館。
このまま生きていても、彼に復讐されるかもしれない。
警察に捕まって犯人とされるかもしれない。
生きていても、幸せなんてないような気がしていた。
彼との生活に疲れていた。
働かずお金を搾取され暴言と暴力だなんて、恋愛じゃない。
恋人という体のいい関係は違うと思う。
静かな秘湯は時間が止まっているかのような穏やかな空間だった。
鳥のさえずりが聞こえるあたり一面が森に囲まれた山奥。
旅館の従業員も閑散時はとても少ない。
客も私しかいないのではないかと思われる。
こんな静かな場所で暮らせたらいいのにと窓の外を眺めた。
この景色を写真に撮ってインスタに投稿した。
店長はネットに疎く、全て私が管理していた。
そして、極めつけはフォロワーが私と一条さんのみという事実。
この景色を見ただけでここを特定はできないと思われる。
一条さんは刑事ならば逮捕しにくるのかもしれない。
でも、ずっと逃亡できる資金もなく、いつかは特定されてしまう。
その前に今見ている景色をネットの世界に遺そう。
油絵で描いたような木々は美しい。
木々は四季折々の表情があり、終わりがないように思えた。
桜の花びらは近くで見ると散ってしまって残念な気持ちになる。
でも、遠くから見る山の景色は桜色から新緑の色に変化して美しさを保ち続ける。
蘭堂さんと出会った雨で散った桜を思い出す。
あれは、私と彼の関係を現わしているような気がしてしまう。
寒い時期である平日は人がほとんどこの温泉にはいない。
自分だけの世界のような錯覚に陥った。
自己満足かもしれないけど、これが遺書代わりだった。
秘湯につかり、最期の入浴を済ます。
罪を洗い流せないことはわかっている。
でも、みそぎのような私の中の儀式だった。
露天風呂は景色がどこまでも美しく、ただ広がる青空は最期にはふさわしいような気がした。
秘湯からの景色も写真に収め、投稿する。
どうせ捕まる前に死ぬつもりだったので、遺すつもりで投稿をしていた。
位置検索でバレてもいい。
もうすぐあの崖の下に行くのだから。
経済的にも暴力を受け、罵声を浴びせられる。彼からの直接的な暴力にも疲れていたのかもしれない。
温泉に長めにつかり、部屋に戻る。
夜ごはんを食べて、あの崖に行こう。
月明かりの下で暗い下に落ちよう。
そう決めてしまうとどこか心が軽くなった。
静かな月明かりが美しい夜。部屋のふすまが急に開いた。
思いもよらぬ来客がやってきた。
刑事の一条さんだった。相変わらずの着くずしたスーツで髪は風になびいたままのような急いできた様子だった。
旅館で自殺しようともくろむ私のところへやってきた一条さんは初めて私と本気で会話をしたように思う。
彼とはそんなに話したこともなかった。でも、いつもまっすぐな印象だった。
「あんた、死ぬ気か? 俺はちゃんとあんたに生きてほしいと思ってる」
「一条さんが何でここにいるの?」
驚いた私はそんな質問しか出てこなかった。
「実は以前フォローしたインスタのアカウントから写真を見てここだと思ってきた」
「なんでここがわかったのですか?」
「位置情報は調べればわかる。でも、ここは俺の生まれ故郷で、すぐに景色を見てわかった」
そんな偶然があるのだろうか。
一条さんの生まれ故郷がこの町だったなんて。
あのマスコットキャラクターはここの町のものだったのかと思う。
「私を逮捕するつもりですか? 私はもうここで死ぬつもりです」
自然と涙があふれていた。
私は本当に死にたかったのだろうか?
本当は生きたかったのではないだろうか?
暴力の支配から逃げたかっただけではないだろうか?
一瞬で自分の頭の中に色々な思考が混ざり合う。
本当の私は何を欲していたのだろう。
「俺は、この事件の担当刑事ではない。これは完全なる個人として動いている。あのカフェに通って1年経つけど、俺はあの店に救われた。あんたには不幸せになってほしくないから。死ぬな」
手を差し出される。
彼の瞳は美しく、正義感にあふれていた。
曇りのない瞳は今日の青空みたいだった。
私はどうして、こんなにもまっすぐな人に助けを求めなかったんだろうと思った。
こうなる前に相談できたかもしれない。
彼のような真面目な人ならば、力になってくれたのかもしれない。
更に涙があふれた。
「俺は客として、知り合いとして、少しでも力になりたいと思う。蘭堂は過去にたくさんの女性に暴行していた。被害届も出ている。蘭堂は無傷だし死んでいない。ナイフの件は正当防衛といえば、罪にはならない」
理路整然とゆっくり話してくれる一条さんの言葉は心強い。
こんなに人肌が恋しいと感じたことがあっただろうか。
涙が止まらなくて、彼の胸を借りた。
彼氏の胸にうずくまることもずっとなかった。
「どうか死なないでほしい。先程刑事内で連絡があったんだが、男は奇跡的に胸に入っていたここの町のキャラクターキーホルダーに救われたらしい。だから、彼は怪我すらしていないから安心しろ」
「でも、倒れていました」
「それは、あまりにもびっくりして、気を失っていたらしい」
沈黙が続いた。
私は殺人を犯してはいなかった。
そのことに安堵したけど、彼からの復讐が怖くなる。
「でも、なんであのキーホルダーを胸ポケットに入れていたのでしょうか?」
「おそらく、希少な限定生産ものだと知って、ネットで転売しようと思っていたんじゃないか。実際金を持っているマニアなら、高価な金を出してでも欲しいと思う人間はいるからな。お守りってのは事実だっただろ」
珍しくにこりとする一条さん。
「首を絞められたあとがあるな。蘭堂には殺人未遂の逮捕状が出るだろう。最近も他の女性に暴行した罪もあって暴行罪で起訴されている。一緒に警察署に行こう。俺が一緒に説明するから」
優しいまなざしだなと思う。
「わかりました。警察で事情を説明します。最後に一緒にコーヒーでも飲みませんか?」
部屋にあったインスタントコーヒーを淹れた。
私にとってコーヒーは人生の分岐点だ。
「最後になんて言うな。これから、また一緒に飲もう」
なんて温かい言葉を発してくれるのだろう。
コーヒーを二人で飲む。
飲みながら一条さんは話をする。
「最初は仕事でブックカフェに出入りしていた。でも、いつのまにか店のファンになっていた。本も品ぞろえがいいし、コーヒーや軽食の味も好みだった。店員の佐和さんの笑顔もいいと思っていた。だから、あの店に自然と足が向くようになったんだ」
笑顔もいいっていう台詞にドキリとする。
「実は蘭堂は殺人事件の犯人の可能性があって、動向を探っていたんだ」
「殺人事件?」
「蘭堂と以前付き合っていた女性が行方不明になっていて、死亡した状態で見つかった。彼が殺したのではないかと調べていたが、他の女性から暴行の被害届や佐和さんも暴力を受け、首絞められた跡もある。まずは逮捕できるから、そこから自白ルートだな」
「私、これからちゃんと生きられるでしょうか?」
「生きてほしい。だって、あの店がなくなったら困るし、俺は身元引受人として行くから。死なないでほしい」
「どうしてそんなに優しいんですか?」
涙がまたあふれた。人の優しさに触れただけでどうしてこんなにも涙もろくなってしまったのだろう。
「私、もしかしたら彼を殺していてもおかしくないんですよ」
「自分を守るためには犠牲を払わないといけないことだってあるんだよ。警察署へ行き、事情を話そう。正当防衛だと説明するんだ。一緒に行くよ。俺は待ってるから」
この人がいてよかった。
死ななくてよかった。
「ちゃんと警察署で話します。そして、私を待っていてください」
たった10分程度のコーヒーを飲む時間。
コーヒーをゆっくり味わって飲んだのはいつぶりだろうか。
インスタントコーヒーでも、飲む相手によって味が変わる。
彼のコーヒーを飲むペースが好きだ。
視線がコーヒーカップへ向かう時の前髪が好きだ。好きだという気持ちがそこに存在していた。
彼の隣が心地良いことに気づく。
激しい情熱とは違う、静かな心地よさ。
初めての感情。穏やかな気持ちになれる関係。
恋なんて形がなくて目には見えないものだけど、隣にいたい。
コーヒーを一杯飲む時間。私は新しい感情に気づいた。

