シンデレラ・スキャンダル
 そしてケンが去って行くと、その広い家に一人なった。簡単な普通の鍵と大きな窓。その窓から見える誰もいない砂浜と美しい海。綺麗に整えられた家。このまま、ここにいても心細いだけ。何も音のしない家でゆっくり過ごせる程の余裕は、まだない。

 口づけられた頬を洗い流すために、洗面所の鏡の前に立ち、帽子に手をかける。手の中にある黒い帽子。

(——帽子?)


「あ!」

 普段は絶対に被らないもの。一つとしてわたしが持っていないもの。フロントにNYと白の糸で刺繍されている、黒いベースボールキャップ。つばの裏部分にはNEWYORKというカラフルな刺繍が見える。

 振り返ったのは無意識。そこに彼がいるはずもないけれど、何度も振り返ってしまうのはどうしてだろう。

「どうしよう」

 できることなら返したい。でも、連絡先も宿泊先もわからない。わたしが知っているのは長谷川という名字だけ。

 あとは、見かけによらず笑顔が可愛いとか、見かけによらず感動系恋愛小説を読むとか、見かけによらず結構お茶目だとか、そして見かけによらず実は優しいとか。そんなことだけ。

 彼との会話を一生懸命思い返してみるけれど、手掛かりになりそうな話はなかった。


 顔を洗い、日焼け止めクリームを塗って、再び帽子を手にする。この家で十日間過ごすなら、それなりの食料と日用品が必要となる。

 迎えに来たタクシーに乗り込み、これまた拙い英単語で買いたいものを告げると、運転手は何度か強く頷き発車させた。走り出して数分後、見覚えのある色合いの看板が目に飛び込んできた。

 英語表記だけど、あれは間違いない。激安の殿堂だ。馴染みのある名前に躊躇することなく店に入ると、やはりそこには商品がずらりと並ぶ日本で見慣れた光景が広がっていた。

 ハワイと日本とが入り混じるその空気が、わたしを少しずつ落ち着けてくれる。見たこともないカラフルな洗剤ボトルに、少しだけテンションが上がる。こういう小さな発見が、旅の醍醐味なのかもしれない。

 商品棚の前で腰を屈めてボトルを手に取りながら物色していると、突然目の前に影ができた。その時初めて人の気配に気づいて、慌ててそちらに視線を向ける。

「コンニチハ」

 片言の日本語。白い肌にこげ茶の髪。ブルーとグリーンが混じったビー玉みたいな瞳。二人組の男たちがわたしを見下ろしていた。

「え?」

「カワイイネ。 How are you doing? Do you have any plan today?」

「あ、あの」

「If you do not mind would you like to have lunch with us?」

「あの、わたし」

 言っている意味はなんとなくわかるけれど、返す言葉が出てこない。

 その人の手がわたしの腕に軽く触れそうになり、咄嗟に腕を引こうとしたけれど、そのまま掴まれて距離を取ることができなくなる。

 完全な日本人顔だから、ことごとく甘く見られてしまうのだろうか。和風という言葉がぴったりと当てはまる自分の顔。日焼け止めと眉毛だけを描いて軽くパウダーで仕上げたせいで、いつもよりさらに日本人らしい顔のはず。
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