シンデレラ・スキャンダル
 日本でここまで強引な男性は中々出会わない。なにより、日本人相手ならもっときっぱりと断れるのに。そう思いながら、もう一度腕を引こうと試みるけれど、掴む力が思いのほか強くてわたしの体は全く動かない。肩にかけたバッグのストラップにも男の手が伸びてきて、一気に恐怖心が高まる。

「英語わからないから。やめて……離して」

「ダイジョブ。ニホンゴチットダケ」

「本当にっ」

 首を横に振っても、何も伝わっていないかのように男たちからは大丈夫という言葉を返されるだけ。まったくもって大丈夫ではない。詐欺なのかスリなのかナンパなのか。できたらナンパがいいけど。いや、でもナンパだって安全かどうかなんてわからないか。

 何も言わないままでいたわたしをどう受け取ったのか。男たちが歩き出して、わたしの体はそちらに引っ張られる。

「やっ……は、はなし……No!」

 必死に抵抗しても、男の力には敵わない。恐怖で視界が滲みかけたその時——。

「Hey」

 低く、よく通る声が響いた。同時に、わたしの肩がぐっと引き寄せられ、温かい何かに包み込まれる。鼻先を掠めたのは、あの甘い香水の香り。

 見上げると、見覚えのある黒いマスクと、鋭い眼差しがあった。彼はわたしを抱き寄せたまま、男たちを低い声で威圧する。

「She is my girlfriend」

「どうして……」

「Really? Oh……Alright」

 さっきとは打って変わり、男たちはすぐにわたしの腕を離すと右手を上げて去って行く。その変わり身の早さに呆気にとられ、彼らの背中を見送る。

「大丈夫?」

「あ……え、あの、どうして」

「俺ね、ハワイに来たら毎回ここで買い物するの」

 マスクをしたまま微笑むその姿を見て、わたしは息を漏らした。彼はわたしの肩を抱いていた手を離すと、そのままわたしが被っている帽子に載せる。

「どこかで見た帽子だなと思って」

「あ! 帽子! そうでした、どうやってお返ししようかと」

「ありがたくって言っていたから、持っていかれたと思った」

「え!」

 彼はまた拳を口にあてて笑っている。

「嘘だよ」

 そう言って帽子のつばを持ち、目深になるように被り直させた。

「戻ったらいなかったから、もう会えないかと思ってた」

 その言葉に、彼をもう一度見上げる。わたしも、そう思った。もう会えないのか、と。名前くらい、ちゃんと聞けばよかった、連絡先くらい聞けばよかった、と。

「わたしも……何も、聞いてなかったから」

 彼の黒目がちな瞳と目が合う。そして、彼はマスクを下にずらして微笑むと軽く頭を下げる。

「長谷川、龍介です」

「……長谷川さん」

「なんか新鮮。苗字で呼ばれること最近ないから」

「あ、わたしは綾乃です。松嶋 綾乃です」

「綾乃ちゃん、ね。俺は龍介でいいよ」

「龍介さん?」

「うん」

 屈託のない笑顔とは、きっとこういうものを言う。目を奪われてしまいそうになりながらも、わたしは慌てて首を横に振る。見惚れてる場合じゃない。

「あ、あの、龍介さん……ありがとうございます。飛行機でも、先ほども。助けていただいて。わたし、きちんとお礼も言わずに」

「良かった。帽子被ってなかったら、わからなかったかも」

「あ、そうでした、帽子。お返ししなくちゃ」

 わたしが帽子に手をかけると、龍介さんが制するように帽子に手を置く。

「いいよ、あげる」

「え? でも」

「帽子ならいっぱい持ってるから」

「いや、でも」

「似合ってるし……それに目印になるから」

「……めじるし、ですか?」

 突然出てきたその単語に、わたしはポカンと口を開けたまま。彼はマスク越しに悪戯っぽく笑うと、わたしの帽子のつばを軽く指で弾いた。

「そう。これ被ってれば、綾乃ちゃんがどこにいてもすぐ見つけられるでしょ? 迷子になっても安心。すぐに助けられるよ」

 まるで子供に言い聞かせるような、当たり前のトーン。

(……なんなの、この人)

 本気なのか冗談なのか分からない。けれど、その言葉が妙に胸の奥に温かく残って、わたしは何も言い返せなくなってしまった。どちらかというと悪役の方が似合いそうなのに、助けに来るなんて、ヒーローみたいなことを言う。

 帽子を素直に受け取れば、わたしのお礼の言葉に彼がもう一度似合うねと言ってくれる。今日初めて出会った人と、こうしてもう一度出会い、名前を知り、その名前を呼ぶ。不思議に思うのに、どうしてかわたしの胸はいつもと違う音を立てる。
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