シンデレラ・スキャンダル
歌うときの彼はとても幸せそうで、楽しそうで、「思うように歌えない」なんてそんな風に感じなかったから、言葉に詰まってしまう。
「曲も思いつかなくて……なんかダメだなって。綾乃ちゃん、俺……」
わたしはゆっくりと彼に歩み寄って、そのままその広い背中を抱き締めた。腕の中の彼が一瞬揺れて、わたしの腕に優しく手を置いた。
その声は、さっきまでの自信に満ちた彼とは別人のように、細く、頼りなかった。気がついた時には、わたしの足は動いていて、ピアノの前に座る彼の広い背中に、ためらわず腕を回していた。
「っ……」
腕の中の彼が、息を呑むようにして一瞬揺れたのがわかった。
「……わたしは、龍介さんの歌に助けてもらいましたよ」
そう伝えて、抱き締める腕に少しだけ力を込める。この思いが伝わりますように、彼の心が少しだけでも晴れますように、そう願いながら。
いつもの香りが鼻をくすぐる。タバコの匂いがしない彼からは、いつも通り石鹸と香水が混ざった甘いようで爽やかな香りがする。
「ピアノはいつからやってるんですか?」
「ピアノは……」
わたしの腕に触れたまま龍介さんが天井を仰ぐ。幼稚園のときに始めて、高校生までずっと続けていたと少しはにかみながら教えてくれる。
音楽を演奏する側の経験なんていままで一度もないから、龍介さんのようにピアノやギターを弾けてしまう人にとても憧れを持つ。鍵盤の上を踊るように動いていく彼の指を見つめながら、すごいと何度も言葉がこぼれてしまう。
すると、彼が椅子の左側を少し開けて跨ぐように座り直した。空いた部分を手のひらで叩くと、わたしを見て微笑む。
「ピアノ、弾いてみる?」
「え……本当にできないですよ。ネコふんじゃった的なものしか」
わたしの答えを聞いて拳を口にあてて笑う彼の仕草は、いつの間にかわたしの好きな仕草になった。安心を覚えるほどに。
「おいで」
彼のゆったりとした低い声と差し出された手に促されてその空いた部分に座ると、再び彼との距離が近くなる。
「わたしでも、できますか?」
「できるよ。じゃあ、左手だけやってみようか。ほとんど決まった動きしかしないから」
鍵盤の上で彼の指がゆっくりと動き出す。目の前で指が動いて、音を奏でる光景に不思議と目が奪われるように集中する。彼はサビの部分を弾き終わると、わたしの顔を覗き込んだ。
「どうですか?」
悪戯っぽく笑う彼に思わず微笑む。
「できるかなぁ」
「手、貸して」
そう言った彼の右手がわたしの左手を持ち上げて鍵盤の上に導くと、指の形を整える。全く日に焼けていないわたしの手と対比されるかのような彼の手は、爪が大きくて小麦色で、分厚い男の人のもの。
「曲も思いつかなくて……なんかダメだなって。綾乃ちゃん、俺……」
わたしはゆっくりと彼に歩み寄って、そのままその広い背中を抱き締めた。腕の中の彼が一瞬揺れて、わたしの腕に優しく手を置いた。
その声は、さっきまでの自信に満ちた彼とは別人のように、細く、頼りなかった。気がついた時には、わたしの足は動いていて、ピアノの前に座る彼の広い背中に、ためらわず腕を回していた。
「っ……」
腕の中の彼が、息を呑むようにして一瞬揺れたのがわかった。
「……わたしは、龍介さんの歌に助けてもらいましたよ」
そう伝えて、抱き締める腕に少しだけ力を込める。この思いが伝わりますように、彼の心が少しだけでも晴れますように、そう願いながら。
いつもの香りが鼻をくすぐる。タバコの匂いがしない彼からは、いつも通り石鹸と香水が混ざった甘いようで爽やかな香りがする。
「ピアノはいつからやってるんですか?」
「ピアノは……」
わたしの腕に触れたまま龍介さんが天井を仰ぐ。幼稚園のときに始めて、高校生までずっと続けていたと少しはにかみながら教えてくれる。
音楽を演奏する側の経験なんていままで一度もないから、龍介さんのようにピアノやギターを弾けてしまう人にとても憧れを持つ。鍵盤の上を踊るように動いていく彼の指を見つめながら、すごいと何度も言葉がこぼれてしまう。
すると、彼が椅子の左側を少し開けて跨ぐように座り直した。空いた部分を手のひらで叩くと、わたしを見て微笑む。
「ピアノ、弾いてみる?」
「え……本当にできないですよ。ネコふんじゃった的なものしか」
わたしの答えを聞いて拳を口にあてて笑う彼の仕草は、いつの間にかわたしの好きな仕草になった。安心を覚えるほどに。
「おいで」
彼のゆったりとした低い声と差し出された手に促されてその空いた部分に座ると、再び彼との距離が近くなる。
「わたしでも、できますか?」
「できるよ。じゃあ、左手だけやってみようか。ほとんど決まった動きしかしないから」
鍵盤の上で彼の指がゆっくりと動き出す。目の前で指が動いて、音を奏でる光景に不思議と目が奪われるように集中する。彼はサビの部分を弾き終わると、わたしの顔を覗き込んだ。
「どうですか?」
悪戯っぽく笑う彼に思わず微笑む。
「できるかなぁ」
「手、貸して」
そう言った彼の右手がわたしの左手を持ち上げて鍵盤の上に導くと、指の形を整える。全く日に焼けていないわたしの手と対比されるかのような彼の手は、爪が大きくて小麦色で、分厚い男の人のもの。