仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

第0章・Scene10 旅立つ夜

 夜の街は、冬の雨に濡れていた。
 雨粒がフロントガラスを打つ音が、車内の静けさに沈み込んでいく。
 タクシーの窓を流れる街灯が、滲んでゆらゆらと揺れた。

 後部座席の璃子は、胸元のコートをきつく握りしめ、唇をかんだ。

 ――会議室を出たあの日から、数日が経った。
 机に叩きつけられた解任通達。
 耳に残る、あの男の冷たい声。

「結果がすべてだ。残念だったね、璃子ちゃん」

 言葉は優しいのに、その瞳は氷のようだった。
 その瞬間から、事務所の誰もが彼女に目を合わせなくなった。

 電話をしても、かつて親しかった仲間たちは曖昧な声で答えを濁す。
 家に帰っても、テレビの音が空しく響くだけだった。

(――彼を、守れなかった)

 恋人であることを隠し続けてきた。
 仕事を超えた想いを胸に秘めながら、ずっと隣にいたのに。

 あの日、最後に交わした会話が、今も耳の奥で繰り返される。

『お前がいてくれるから、俺はステージに立てるんだよ』

 あの言葉を最後に、彼は突然姿を消した。
 何の前触れもなく、理由もわからないまま。
 その笑顔を、信じていたのに。

 喉がひりつき、涙がこみ上げる。
 コートのポケットの中で、指先が震えた。
 握りしめているのは、今日買ったばかりの航空券。
 滲んでよく見えない文字が、これからの不安を象徴しているようだった。

(あの人は、今どこで何をしているんだろう……)

 タクシーが空港へ続く高速道路に入る。
 ガラスに映る自分の顔が、見知らぬ人のように思える。
 目の下に残る影が、失ったものの大きさを物語っていた。

(ここには、もう私の居場所はない。
 でも、あのままじゃ……何も変わらない)

 窓の外に広がる滑走路の灯り。
 飛び立つ機体の光が、夜空の向こうに小さく消えていく。

「……蓮……」

 思わず名を呼んだ声は、タクシーのシートに吸い込まれた。

「……行くしか、ないよね」

 かすかな声を残して、フードを被り、スーツケースの取っ手を握り直す。
 運転手がバックミラー越しにちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。

 到着ロビーは深夜の冷たい空気に包まれていた。
 人影もまばらな広いフロアで、璃子のヒールの音が乾いた音を立てる。

(いつか……いつか、また――)

 そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
 けれど歩みを止めなかった。
 璃子はスーツケースを引き、搭乗ゲートへと向かう。

 背後には、二度と振り返らないと決めた街の光が、遠く霞んでいた。



 
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