王位を継いだら最強でした~17歳の末姫が、王位に就いたら国が救われたようです~

第3話 知の礎、偽りの恩寵

王国議会の冬季会期、その日、議場には珍しく民衆の歓声が外まで響いていた。

薄曇りの空の下、議事堂の石造りの広場には朝早くから王都市民が詰めかけていた。議場の正門前には、各地から集まった報道記者や演説家、教育関係者の姿が見える。焼き栗の香りが立ちのぼる屋台のそばで、革靴を鳴らす貴族の使いが行き交い、広場の空気は年末とは思えぬほどの熱気に包まれていた。

その中心で、教育局長・ルシアーノ子爵が登壇した。

銀糸の刺繍が施された上衣に身を包み、堂々たる声で彼は宣言した。

「すべての子どもたちに、学びの扉を開こうではありませんか!」

演壇に反響するその言葉に、議席のあちこちから拍手が湧いた。

今回提出された「初等教育無償化法案」。王国における六歳から十歳までの初等教育課程について、授業料を全額国費で賄うというこの法案は、発表と同時に王都中の注目を集めていた。

「教育をすべての子に」――美しく響くその標語は、議事堂正面の横断幕にも大書されていた。

街中の掲示板には詩人たちが賛歌を張り出し、「知識は剣より強く、教えは王冠より尊い」と謳い上げた。

王都新聞は「新王政の希望、知の世紀の始まりか」と題した特集記事を掲載し、市場の肉屋でさえ「ルシアーノ子爵のおかげで、うちの坊主も読み書きができるようになるかもな」と笑った。

だが、宮廷の奥まった一室――政務執務室においては、その熱狂とは対照的な沈黙が支配していた。

アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、白金の書見台に広げた法案の正本と、財務省から送られた補正予算帳簿をじっと見下ろしていた。

机には教育施設分布図、人口比率と教育就学率の一覧、各地の歳出入予測表が整然と並べられている。

「……都市圏に偏っているわね」

彼女の右手は静かに、ペン先で王都周辺を示した。

都市部に密集する学校施設、整った舗装道路、十分な教員数と寄付金。だが、地図の西部高地、北辺境の集落、東南の山間部には、ほとんど学校の記号が存在しなかった。

「授業料が“無償”になったところで、学校そのものが存在しない地域では、恩恵すら届かない」

彼女の視線が、帳簿に移る。

「この財源……これは前回凍結した王室慶典予算の再編部分……それに、中等教育補助の転用?」

アウレリアの指先が、数列の隙間をなぞった。

前王政下、王室慶典費として積み上げられていた接待予算、祝賀式典の舞踏会費用、宗教行事の贈答費などは、即位直後にアウレリア自身が凍結した予算群である。

それが今、「教育振興費」と名を変え、都市部の小学校支援に流用されていた。

また、中等教育……すなわち十一歳から十五歳を対象とした、歴史、倫理、自然科学を含む課程への補助金は、大幅に減額されていた。

「見た目には“無償化”に見える。でも実際には、王都中心部に集中した特定層への利益誘導にすぎない」

彼女の眉間に皺が寄った。

「しかも、支出の名目変更で実質的な増税は避け、帳簿上の均衡だけを整えている……これは“政治的化粧”ね」

その瞬間、机の隅に積まれた報告書の一つに目が止まった。

――北部辺境ベルネ村。初等教育施設未設置。教会倉庫にて週三回、信徒教師による臨時授業。暖房設備不備。教科書共有比率:生徒七人に一冊――

「これが、現実……」

アウレリアは椅子から静かに立ち上がり、外套を羽織った。

「北部へ行きます」

傍らに控えていた側近が息を呑んだ。
「陛下……今は冬です。山越えは危険ですし、議会も……」

「危険だからこそ、行かねばなりません。法案が決まる前に、真実を自分の目で見ておく必要があるのです」

冷たい風が扉を開けると同時に吹き込み、広げた帳簿の一頁がはらりと舞った。

アウレリアは足を踏み出した。

王都の帳簿ではなく、声なき民の現場へ。



アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、真実を求めて北へ向かった。王都を離れる旅に先立ち、彼女は身分を伏せ、随行を最小限に抑えた。記録官、医務官、そして信頼の置ける近衛兵数名を連れ、視察とは名ばかりの冬の旅に出た。

出発は曙の静寂の中で行われた。薄明の空の下、雪をかぶった馬車が王都の北門を抜けると、都市の喧騒はたちまち凍てついた静けさに変わった。

北方街道は冬の厳しさに晒され、氷と雪が交互に積もる不規則な地形を馬車は軋ませながら進んだ。霜を含んだ風が帷子の裾を揺らし、車輪の軸は一日に何度も凍りついた泥で詰まり、そのたびに護衛兵が黙々と修理にあたった。

旅路の五日目、彼女がようやくたどり着いたベルネ村は、山裾と小川に抱かれた、王国でも指折りの寒村だった。村の入り口に立つ木製の標識は傾きかけており、文字の一部は風雨に消えていた。薄く降り積もった雪を踏みしめながら、アウレリアは静かに村の中心へ向かった。

そこに建つのは、教会と呼ぶにはあまりに質素な石造りの小屋だった。かつて修道士が寝泊まりしたというその建物は、今では礼拝と学びの場を兼ねていた。

「ようこそおいでくださいました……」

白髪の老司祭が深々と頭を下げた。

中へ案内された彼女の目に映ったのは、冷たい空気が充満する礼拝堂の片隅に、板切れで作られた即席の机と、わずか三冊の教科書を囲んで学ぶ十数人の子どもたちの姿だった。

焚き火はなく、吐息は白く、机に置かれたインク壺には氷の膜が張っていた。子どもたちの外套はつぎはぎだらけで、その下に着込まれた布の重ね着すら、寒さを遮るには不十分だった。

「授業は……週に三度です。先生は持ち回りで、村の年寄りが交代しています」

司祭の声には諦めと、それでも守り抜こうとする気丈さがあった。

アウレリアは言葉を発さず、教本を回し読みする子どもたちの傍らにしゃがみ込むと、一人ひとりの表情を見つめた。

その中に、彼女はある種の沈黙を見た。誰もがこの“学び”を当然のものとして受け入れていた。寒さも、不便も、欠乏すらも日常の一部であり、違和感を抱く余地すら奪われているのだった。

「国からの補助はございます。でも」

振り返ったのは村の長老だった。顔に深い皺を刻みながらも、その瞳には鋭さが宿っていた。

「先生は増えません。そして、紙も、筆も、机も。子どもが増えれば、詰め込むしかない。
“無償”という言葉は、期待と絶望を一緒くたに包んでしまっています」

彼の声は静かだった。だが、礼拝堂の石壁に染み入るような重みを持っていた。

アウレリアは懐から銀のペンを取り出し、記録官に頷くだけで全てを伝えた。書き記されるのは、現場の風、空気、冷え、言葉、表情すべてだった。

王都へ戻った彼女は、視察を終えたその足で、市内の第四小等学院を訪れた。そこは王都でも名門中の名門とされる教育機関であり、近年拡張工事を終えたばかりの新校舎が人々の注目を集めていた。

玄関扉はマホガニー製、廊下は大理石張り、講堂の天井には金箔のレリーフが施されていた。

一人一冊、革表紙に名入れされた教本を抱える子どもたちの笑顔。
教師は貴族の出であり、寄贈された最新の教具が整然と陳列されていた。

壁には銘板が並び、そのいずれにも名家や企業の名が刻まれていた。

“ルシアーノ子爵家一門”、“印刷業ギルド同盟”、“第三貴族銀行協会”――

アウレリアは目を細めた。そのまま議会に戻り、即座に調査班へ命じて書類と契約書の洗い出しを始めさせた。

数日後、届けられた報告書の中に、決定的な記載があった。

教科書印刷の契約は王都の特定業者に集中しており、その役員名簿にはルシアーノ子爵の義兄と甥が名を連ねていた。さらに、王都校舎の改築費には教育局長の裁量費が流用されていた。

教育局の裏で動いていたのは、善意の仮面を被った利権構造そのものだった。

アウレリアは一枚一枚の書類に目を通し、静かに署名を入れ、記録棚に丁寧に収めていった。
怒りはなかった。ただ、確信だけがそこにあった。

灯りは一本の蝋燭のみ。雪混じりの風が窓を叩く中、アウレリアは窓の外に目を向け、こう呟いた。

「人の心に宿る光を育てるのが教育だと思っていた。
だが今、その灯を覆っているのは、銭の陰と、虚飾の幕……」

机の上には、議会演説の日程を記した手帳が広げられていた。

その日は、もう目前だった。



王国議会の春期本会議、その開会を告げる鐘が厳かに鳴り響いた。

石と金の装飾が施された半円形の議場。天井から垂れるシャンデリアの光が白く反射し、厳粛な空気が場内を包み込んでいた。老練な貴族、軍の将官、各都市の代議員たちが整然と席につき、わずかな私語も自重されていた。

その中央、演壇に静かに姿を現したのは、ひとりの少女だった。

白銀の礼装に身を包み、背筋を伸ばして立つその姿に、誰もが息を呑む。

アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。王政再建を託された、第六王女。

その存在が放つ緊張感は、空気そのものを変えていた。天蓋の奥にある古の王家の紋章が、静かに光を受けて揺れていた。

彼女は一歩、演壇の中央へ進み、そして口を開いた。

「教育とは、字を与えることではありません」

その声は澄んでいた。だが、かすかな震えや迷いはなく、むしろ確信のように場内を包み込んだ。

「未来を編む力を授けること。人が人として生きる道を、自らの足で選び取る力を授けること。――それが、教育です」

その言葉に、数人の議員がわずかに頷いた。だが多くは沈黙のままだった。

アウレリアは、言葉を紡ぐように、ひとつひとつ丁寧に語っていった。

「ですが……“初等教育の無償化”政策は、その理念から著しく逸れています」

彼女は手元の文書を広げ、淡々と読み上げた。

「王国北部ベルネ村。そこでは、週に三度だけ、教会の倉庫で授業が行われています。暖房はなく、教科書は三冊。教師は老信徒の持ち回り。机は三台、子どもたちはそこで身を寄せ合いながら学んでいる」

その言葉に、議場に微かなざわめきが起こった。だが、それを封じるようにアウレリアは続けた。

「一方、王都の第四小等学院では、大理石の床に金の演台、革装丁の教科書に、名家の紋章を掲げた備品が並んでいます。寄贈者の名を刻んだ銘板の列が、教育の名の下に威容を誇っています」

彼女は資料を掲げ、その中の写真を示した。

「これが、同じ“無償化教育”と呼ばれて良いのでしょうか」

アウレリアの視線が鋭く光った。

「これは“教育の無償化”ではありません。“教育の階級化”です」

重たい沈黙が場内に落ちた。筆記する音すら止まり、誰もがその意味を噛みしめていた。

「ルシアーノ子爵が提案する制度には、四つの構造的問題があります」

彼女は語り続けた。

「一つ、施設の格差――都市と地方で校舎そのものの水準が異なりすぎている。
 二つ、教育人員と教材の配分の不備――一部地域に集中する人員と資材が、他を枯らしています。
 三つ、財源の不透明性と流用――“無償”をうたいつつ、その原資は中等教育の削減と宮廷予算の名目変更から得ている。
 四つ、“無償”という美名のもとに起きている資源の集中と格差の固定化」

彼女の声は感情を乗せず、冷静に事実を切り取っていく。その静けさこそが、議場に緊張を走らせていた。

「さらに、調査の結果明らかになったことがあります」

アウレリアは一通の文書を掲げた。

「教科書納入契約が特定の業者に集中している件。その業者の役員に、教育局長ルシアーノ子爵の義兄および甥が含まれていました。さらに、王都校舎拡張費に教育局長裁量枠の不正流用が確認されています」

場内の空気が凍りついた。ある議員は眉を吊り上げ、別の者は手元の資料に視線を落とした。

だが、アウレリアは声の調子を一切変えなかった。

「わたくしは、これを放置することはできません」

そして、深く息をついたあと、視線を前に向けて言った。

「ゆえに、以下の新たな教育制度を提案いたします」

アウレリアの周囲に控えていた秘書官たちが、提案書を各議員席へ配布していく。

「第一に、農村部および貧困地域への教育インフラの優先整備。教室、暖房、教具、水回りに至るまで、国家が責任をもって支援します。
 第二に、教員育成および派遣制度の刷新。王立教育学院を設置し、地域ごとの定数制を導入。卒業者は義務的に一定年数、地方へ赴任します。
 第三に、公教育標準化制度の創設。教材、指導内容、学力評価基準を王国全土で統一し、教育の地域格差を是正します。
 第四に、教科書印刷および配布は王室の直轄管理とし、契約はすべて公開入札制。内容監修は民間・宗教・学術界の第三者委員会が行います。
 教育の名を騙る利権は、これをもって根絶いたします」

その一言は、鉄槌より重く議場に響いた。

「“無償”とは、ただで与えるということではありません。
 “公”とは、権威を飾る言葉ではなく、弱き者の光でなければならない」

その静寂のあと、議場の隅から、一人の中立派議員が立ち上がって拍手を送った。
それはやがて連鎖し、若手議員、地方代表、そして一部の保守派にも広がっていった。

反論の声はなかった。



数日後――王国教育再建法が可決された。

ベルネ村には薪と新しい黒板が届けられ、若き女性教師が赴任した。
王立教育学院は設計段階に入り、志願者募集の告知が各地の公報に掲載された。

王都の書籍印刷所では、初の標準教科書の試作版が完成し、校正作業が夜を徹して続いていた。

その夜、王宮。

アウレリアは、執務机に広げた記録帳の空白に、羽ペンを走らせていた。

「知は、光ではない。灯す意思と手があってこそ、初めて輝く」

そして、余白にもうひとこと。

「正しさは、声高に叫ばれるよりも、静かに守られる方が強い」

窓の外には、春の星がきらめいていた。
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