王位を継いだら最強でした~17歳の末姫が、王位に就いたら国が救われたようです~
第4話 麦危機と政の真価
春の風が吹く王都の市場。花が咲きはじめる季節でありながら、その空気には、どこか不穏な緊張と焦燥が滲んでいた。
市場の通りでは、かつては香ばしく焼き上がったパンの匂いが通行人の足を止めさせたが、今は焦げつくような憤りと、空の財布を握りしめる手が通りの景色を塗り替えていた。
パン屋の店先には、朝の鐘が鳴る前から市民の列ができていた。
「……頼む、三つだけでいい。子どもたちに朝飯を……」
「値札が昨日と違う……倍になってる……これ、間違いじゃないのか?」
がやがやと列の後方から不満の声が湧き出し、先頭にいた老夫婦が黙ってその場を去る。
小麦パン一斤の値段は、先月の二倍。
ふわりとした食感で人気だった蜂蜜パンはすでに品切れ。高価な雑穀パンが唯一残された選択肢となっていた。
「この値段で買えっていうのか!?」
「昨日よりまた上がってるぞ、冗談じゃない……」
「誰かが麦を買い占めてるんだ!」
怒号とため息が混じり、市場のあちこちでささやき声が渦を巻く。
「商人が麦を隠している」
「王宮が輸入麦を止めたらしい」
「貴族だけがいいパンを食ってる」
噂は尾ひれをつけて拡散し、瞬く間に市中に不信と怒りが広がっていった。
そんな混乱の渦中、王宮では静かに真相が明かされつつあった。
政務執務室――
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、重厚な書見台に広げられた複数の資料に目を通していた。
財務局と農務省からの報告書。
その文面は一見整っていたが、行間に潜む歪みが彼女の感覚をざらつかせた。
小麦の流通量は、前年度比で34%減。
価格は、三ヶ月で平均2.1倍。
原因は、天候不順ではなかった。戦争でもなかった。
──農務省による「減反政策指導」──
アウレリアは静かに、その文言を繰り返した。
減反政策。それは、麦の作付け面積を意図的に縮小させ、より高付加価値の作物、たとえば甘味原料や輸出野菜への転作を促すというものであった。
建前は「農業の収益構造改革」――しかしその裏には、外貨収支改善という財務省の意向と、輸出商人たちの強い圧力があった。
報告書には、「麦の生産効率が低いため、国益にそぐわぬ」と冷たく記されていた。
「国益の定義は、空腹の民に説明がつくものなのかしら」
アウレリアの声は低く、けれどよく通った。
さらに、もう一枚の封印書類。
そこには「備蓄穀物目録・第七級管理情報」と刻印されていた。
王国には、過去の戦争や天災に備えた戦時備蓄として、大規模な小麦貯蔵が存在していた。
その量、王都消費の約二年分。
だがその情報は“王国機密”として扱われ、防衛評議会の命令がない限り開示も放出もできない仕組みになっていた。
「出せば市場は落ち着く。だが、出すには法を破らねばならない。法を守れば、民が飢える……」
記録官が黙って資料を束ね、アウレリアの視線をうかがった。
彼女の目は静かに燃えていた。
机上には、各州の地方長官から届いた嘆願書が積まれていた。
『パンが買えず、暴動の兆しあり』
『市場に高齢者が並び倒れる事例発生』
『盗難・強奪事案が農村部でも急増』
「小麦は……あるのに、飢えている」
それはただの食糧危機ではなかった。
制度の歪みが飢えを生み、統治が民を遠ざけた末の災いだった。
「これは、“制度の飢餓”です」
アウレリアは記録帳を開き、一行を力強く記す。
『政策とは、数字ではなく、食卓の声で測られるべきである』
その筆跡は断固たる意志の刻印だった。
彼女は書簡を三通したためた。
一通は農務省。
一通は財務省。
一通は王国法制局。
文面はすべて短く、簡潔だった。
「明朝、備蓄倉庫の実地調査を行う。王女アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア名義にて執行する」
その宣言を覆せる者は、王国にいなかった。
♦
夜が明けると同時に、王都近郊の穀物備蓄倉庫へと向かう馬車列が静かに動き出した。
先頭を進むのは、王室の金と紅の紋章が染め抜かれた黒塗りの馬車。その背後には近衛兵を乗せた騎馬隊、王宮の記録官、農務省と財務省の陪席役人たちが整列し、霜が白く覆う石畳を踏みしめながら前進していた。
目的地は王都アルメリア区の外れに位置する第九備蓄倉庫。城壁に隠されたその存在は、ごく一部の高官しか知らない、まさに“封印された胃袋”だった。
道中、アウレリアは馬車の中で静かに書類を読み返していた。冷たい朝の光が窓越しに射し込み、彼女の銀髪を淡く照らしていた。指先はページの隅に触れたまま止まっている。
──理屈は整っている。だが、それが導く現実は歪んでいる。
数字で語る統治が、飢えに直面した市民の前では無力であることを、彼女はこの数日で嫌というほど学んでいた。
馬車が止まった。
目の前には、高く堅牢な鉄門。その両側に並ぶ衛兵たちは、規律正しく敬礼を送ったが、その表情にはわずかに緊張がにじんでいた。
「開門を」
アウレリアが告げると、衛兵隊長が進み出る。
「申し訳ありません、陛下。備蓄倉庫の開封には、防衛評議会の事前承認が……」
言葉が終わる前に、アウレリアは懐から書簡を差し出した。
「王国食糧備蓄法・特例条項により、王女アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア名義にて査察を執行する」
書簡には、鮮やかな王印とアウレリアの直筆が刻まれていた。隊長がそれを確認し、短く敬礼する。
「開門せよ」
軋む音を立てて、鉄門がゆっくりと開いていく。
倉庫の内部はほの暗く、密閉された空間特有の冷たく澱んだ空気が流れ込んできた。
ランタンの灯が運び込まれ、長く連なる影が壁に揺れた。
そこに広がっていたのは、文字通りの光景だった。
──穀物の山。
麻袋に詰められた小麦が、まるで軍隊の兵士のように整列し、天井に届くほどの高さで積み上がっていた。
記録官が筆を止め、呆然とした声でつぶやく。
「積載数、三万六千五百袋……全て未開封……」
王都の民が半年を生き抜くに足る、膨大な備蓄だった。
にもかかわらず、いまだ一粒たりとも民の手に渡っていない。
「備蓄とは、非常時のためのものであり、現在は市場調整の範囲内と見なされております」
農務省副局長が口を開いた。灰色の外套をまとい、淡々とした口調で続ける。
「過剰な供給は市場に混乱を招きます。買い控えと買い占めを誘発し、次なる不均衡を生むおそれが……」
「……それが、飢えた民の前で言えますか?」
アウレリアの声は低く静かだったが、空気を切り裂く鋭さを持っていた。
副局長の顔がわずかに引きつる。だが彼はなおも理論を展開しようとした。
「我々は中長期的な……」
「では、お聞きします」
アウレリアが一歩前へ出る。
「“今の状況”を、あなたは非常事態と認識していないと、そう断言できますか?」
副局長の喉がごくりと鳴る。言葉を探そうと口を開きかけたが、結局、何も出なかった。
周囲の役人たちも視線を逸らし、沈黙の壁が倉庫を包んだ。
その翌日。
王宮は視察結果の一部を報道官を通じて発表。要点は簡潔だったが、決定的な一文が混乱を呼ぶ。
──「王都の備蓄倉庫には、現在、三万六千袋以上の小麦が封印されている」
街は揺れた。
「あるのに、出さない?なぜだ?」
「子どもが飢えてるのに、倉庫で黴びさせる気か!」
人々の怒りは瞬く間に街路へと溢れ出た。
穀物問屋の前に集まった市民の群れは次第に膨れ上がり、ある者は石を投げ、ある者は店主を罵倒し、窓ガラスが割れた。
パン屋では品切れの張り紙に怒号が飛び、警備隊の出動が相次いだ。
議会でも余波が広がる。
「王政は機密の名の下に、飢えを看過した!」
「備蓄は備蓄だ、放出すれば通貨が崩壊する!」
野党と保守派が正面から衝突する中、改革派ですらアウレリアの発表を「唐突すぎた」と苦言を呈し始めていた。
議事堂控室。
アウレリアは、報告書の山の前で物思いに沈んでいた。
「陛下……混乱が拡大すれば、王政に対する批判が高まりかねません」
側近の声に、彼女は静かに記録帳を開いた。
「それでも、黙っていたら──それこそ、民に背を向けた統治になる」
そして、こう結んだ。
「これは穀物の問題ではない。統治の魂が問われている」
♦
その夜、王都議会の特別臨時会が招集された。
春の宵、王都は霞むような宵闇に包まれながらも、議事堂だけは異様な熱を帯びていた。石畳の階段を昇る革靴の音、傍聴席を埋め尽くす市民と記者の低いざわめき、そして議員たちの視線の交差――すべてが、ただならぬ決定が下される予感を孕んでいた。
場内は薄暗く調光され、各議員席には一枚の布告案が丁寧に配布されていた。紙をめくる音すら慎重で、咳払いひとつで視線が集まるほど、空気は緊張に満ちていた。
そして、演壇にアウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアが静かに歩み出た。
王女でありながら、彼女は宝冠も礼装も纏わなかった。白銀の刺繍が施された紺のガウン。王印のブローチだけが、その立場を物語っていた。だが、その歩みと、立ち姿に宿る気配は、誰よりも重かった。
「王都市民諸氏、そして王国各地の民よ」
その第一声が放たれた瞬間、議場の全員が息を呑んだ。
「今、この国の街角には、空腹に耐えかねた者たちがいます。パンの欠片を奪い合い、扉の前で母に縋り、泣き叫ぶ子どもたちがいます。貴族の邸からは焼きたての香りが漂う一方で、倉庫には三万袋の麦が、黙して眠っています」
彼女の語調は穏やかだった。しかしその静けさは、雷鳴よりも深く響いた。
「わたくしは、王国最大の備蓄倉庫をこの目で見てきました。高く積まれ、誰にも触れられずに眠る麦の山。理屈ではそれは完璧な備えかもしれません。けれど、飢えた者の目には、それは希望ではなく、幻影です」
ざわ……と微かな波紋が広がる。沈黙の中で、誰かの椅子が軋む音が響いた。
「理由は挙げられました。『経済の安定』、『市場の調整』、『インフレの抑制』――そして、『非常時ではない』」
アウレリアは一度、言葉を止めた。わずかに眉を寄せる。続けるその声には、痛みと怒りと、決意が混ざっていた。
「けれど、わたくしは問います」
彼女は演壇の縁に両手を置き、前へと体を傾ける。
「空腹とは、非常事態ではないのですか?」
議場が凍りついたかのように静まる。
「子どもの泣き声は、警報ではないのですか?」
席のあちこちで目を逸らす者がいた。誰もが、その問いを否定できなかった。
「わたくしはこの事態を、“飢え”ではなく、“信頼の喪失”だと捉えています。制度が人を支えず、法が命を軽んじるとき、国は音もなく崩れるのです」
彼女は、手元の布告案を高く掲げた。
「よって、ここに宣言いたします」
言葉は飾りを排し、端的に核心を突いていた。
一、王国備蓄麦の段階的市場放出を実施する。放出は価格安定委員会の管理下で行い、混乱を避けつつ速やかに供給を始める。
二、今期中の減反政策を全面凍結。各地の麦農家に対する播種支援金を再交付し、耕作再開を後押しする。
三、農務省・財務省の管轄にある食糧統制機構を再編し、合同監査局を新設。備蓄・流通を常時監視・報告対象とする。
四、王国法制局に『食の安全保障』を王国の国是と定める王令草案の起案を命じる。
「これは、麦の話ではありません。政への信頼、そのものの問題なのです」
彼女は静かに布告案を下ろし、最後に一言を加えた。
「誰も飢えさせない。それが“政”の最低限の誇りであり、“王”の名に託された責務です」
その場には、言葉にならぬ静けさが落ちた。
そして、若い議員がひとり、立ち上がり拍手を送った。その音が、春の雪解けのように徐々に議場を満たしていく。
やがて、改革派、そして保守の一部までもが立ち上がり、議場の天井が震えるほどの拍手が巻き起こった。
◆
数日後、王都の市場には、麦が戻ってきた。
通りには久しぶりにパンの香りが漂い、子どもたちの笑顔が並んだ。
農村では凍っていた畑が再び耕され、馬の蹄と鋤の音が大地を揺らした。春の土に種が撒かれ、希望が埋められた。
王宮では合同監査局が設置され、備蓄と流通の透明化が着実に進められていた。書面ではなく現場の声に応える政が、徐々に姿を取り戻していた。
◆
その夜。
アウレリアは静かな書斎にひとり座り、記録帳を開いた。
硯に墨をすり、羽ペンをとり、真新しい頁にこう記す。
「人は理屈で動かない。だが、空腹はすべての真実を暴く」
そして、少し間を空けて、続けた。
「正しさとは、声高な主張ではなく、空腹を癒す手に宿る」
筆を置くと、彼女はしばし目を閉じた。
その静かな吐息に、灯火が微かに揺れた。
市場の通りでは、かつては香ばしく焼き上がったパンの匂いが通行人の足を止めさせたが、今は焦げつくような憤りと、空の財布を握りしめる手が通りの景色を塗り替えていた。
パン屋の店先には、朝の鐘が鳴る前から市民の列ができていた。
「……頼む、三つだけでいい。子どもたちに朝飯を……」
「値札が昨日と違う……倍になってる……これ、間違いじゃないのか?」
がやがやと列の後方から不満の声が湧き出し、先頭にいた老夫婦が黙ってその場を去る。
小麦パン一斤の値段は、先月の二倍。
ふわりとした食感で人気だった蜂蜜パンはすでに品切れ。高価な雑穀パンが唯一残された選択肢となっていた。
「この値段で買えっていうのか!?」
「昨日よりまた上がってるぞ、冗談じゃない……」
「誰かが麦を買い占めてるんだ!」
怒号とため息が混じり、市場のあちこちでささやき声が渦を巻く。
「商人が麦を隠している」
「王宮が輸入麦を止めたらしい」
「貴族だけがいいパンを食ってる」
噂は尾ひれをつけて拡散し、瞬く間に市中に不信と怒りが広がっていった。
そんな混乱の渦中、王宮では静かに真相が明かされつつあった。
政務執務室――
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、重厚な書見台に広げられた複数の資料に目を通していた。
財務局と農務省からの報告書。
その文面は一見整っていたが、行間に潜む歪みが彼女の感覚をざらつかせた。
小麦の流通量は、前年度比で34%減。
価格は、三ヶ月で平均2.1倍。
原因は、天候不順ではなかった。戦争でもなかった。
──農務省による「減反政策指導」──
アウレリアは静かに、その文言を繰り返した。
減反政策。それは、麦の作付け面積を意図的に縮小させ、より高付加価値の作物、たとえば甘味原料や輸出野菜への転作を促すというものであった。
建前は「農業の収益構造改革」――しかしその裏には、外貨収支改善という財務省の意向と、輸出商人たちの強い圧力があった。
報告書には、「麦の生産効率が低いため、国益にそぐわぬ」と冷たく記されていた。
「国益の定義は、空腹の民に説明がつくものなのかしら」
アウレリアの声は低く、けれどよく通った。
さらに、もう一枚の封印書類。
そこには「備蓄穀物目録・第七級管理情報」と刻印されていた。
王国には、過去の戦争や天災に備えた戦時備蓄として、大規模な小麦貯蔵が存在していた。
その量、王都消費の約二年分。
だがその情報は“王国機密”として扱われ、防衛評議会の命令がない限り開示も放出もできない仕組みになっていた。
「出せば市場は落ち着く。だが、出すには法を破らねばならない。法を守れば、民が飢える……」
記録官が黙って資料を束ね、アウレリアの視線をうかがった。
彼女の目は静かに燃えていた。
机上には、各州の地方長官から届いた嘆願書が積まれていた。
『パンが買えず、暴動の兆しあり』
『市場に高齢者が並び倒れる事例発生』
『盗難・強奪事案が農村部でも急増』
「小麦は……あるのに、飢えている」
それはただの食糧危機ではなかった。
制度の歪みが飢えを生み、統治が民を遠ざけた末の災いだった。
「これは、“制度の飢餓”です」
アウレリアは記録帳を開き、一行を力強く記す。
『政策とは、数字ではなく、食卓の声で測られるべきである』
その筆跡は断固たる意志の刻印だった。
彼女は書簡を三通したためた。
一通は農務省。
一通は財務省。
一通は王国法制局。
文面はすべて短く、簡潔だった。
「明朝、備蓄倉庫の実地調査を行う。王女アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア名義にて執行する」
その宣言を覆せる者は、王国にいなかった。
♦
夜が明けると同時に、王都近郊の穀物備蓄倉庫へと向かう馬車列が静かに動き出した。
先頭を進むのは、王室の金と紅の紋章が染め抜かれた黒塗りの馬車。その背後には近衛兵を乗せた騎馬隊、王宮の記録官、農務省と財務省の陪席役人たちが整列し、霜が白く覆う石畳を踏みしめながら前進していた。
目的地は王都アルメリア区の外れに位置する第九備蓄倉庫。城壁に隠されたその存在は、ごく一部の高官しか知らない、まさに“封印された胃袋”だった。
道中、アウレリアは馬車の中で静かに書類を読み返していた。冷たい朝の光が窓越しに射し込み、彼女の銀髪を淡く照らしていた。指先はページの隅に触れたまま止まっている。
──理屈は整っている。だが、それが導く現実は歪んでいる。
数字で語る統治が、飢えに直面した市民の前では無力であることを、彼女はこの数日で嫌というほど学んでいた。
馬車が止まった。
目の前には、高く堅牢な鉄門。その両側に並ぶ衛兵たちは、規律正しく敬礼を送ったが、その表情にはわずかに緊張がにじんでいた。
「開門を」
アウレリアが告げると、衛兵隊長が進み出る。
「申し訳ありません、陛下。備蓄倉庫の開封には、防衛評議会の事前承認が……」
言葉が終わる前に、アウレリアは懐から書簡を差し出した。
「王国食糧備蓄法・特例条項により、王女アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア名義にて査察を執行する」
書簡には、鮮やかな王印とアウレリアの直筆が刻まれていた。隊長がそれを確認し、短く敬礼する。
「開門せよ」
軋む音を立てて、鉄門がゆっくりと開いていく。
倉庫の内部はほの暗く、密閉された空間特有の冷たく澱んだ空気が流れ込んできた。
ランタンの灯が運び込まれ、長く連なる影が壁に揺れた。
そこに広がっていたのは、文字通りの光景だった。
──穀物の山。
麻袋に詰められた小麦が、まるで軍隊の兵士のように整列し、天井に届くほどの高さで積み上がっていた。
記録官が筆を止め、呆然とした声でつぶやく。
「積載数、三万六千五百袋……全て未開封……」
王都の民が半年を生き抜くに足る、膨大な備蓄だった。
にもかかわらず、いまだ一粒たりとも民の手に渡っていない。
「備蓄とは、非常時のためのものであり、現在は市場調整の範囲内と見なされております」
農務省副局長が口を開いた。灰色の外套をまとい、淡々とした口調で続ける。
「過剰な供給は市場に混乱を招きます。買い控えと買い占めを誘発し、次なる不均衡を生むおそれが……」
「……それが、飢えた民の前で言えますか?」
アウレリアの声は低く静かだったが、空気を切り裂く鋭さを持っていた。
副局長の顔がわずかに引きつる。だが彼はなおも理論を展開しようとした。
「我々は中長期的な……」
「では、お聞きします」
アウレリアが一歩前へ出る。
「“今の状況”を、あなたは非常事態と認識していないと、そう断言できますか?」
副局長の喉がごくりと鳴る。言葉を探そうと口を開きかけたが、結局、何も出なかった。
周囲の役人たちも視線を逸らし、沈黙の壁が倉庫を包んだ。
その翌日。
王宮は視察結果の一部を報道官を通じて発表。要点は簡潔だったが、決定的な一文が混乱を呼ぶ。
──「王都の備蓄倉庫には、現在、三万六千袋以上の小麦が封印されている」
街は揺れた。
「あるのに、出さない?なぜだ?」
「子どもが飢えてるのに、倉庫で黴びさせる気か!」
人々の怒りは瞬く間に街路へと溢れ出た。
穀物問屋の前に集まった市民の群れは次第に膨れ上がり、ある者は石を投げ、ある者は店主を罵倒し、窓ガラスが割れた。
パン屋では品切れの張り紙に怒号が飛び、警備隊の出動が相次いだ。
議会でも余波が広がる。
「王政は機密の名の下に、飢えを看過した!」
「備蓄は備蓄だ、放出すれば通貨が崩壊する!」
野党と保守派が正面から衝突する中、改革派ですらアウレリアの発表を「唐突すぎた」と苦言を呈し始めていた。
議事堂控室。
アウレリアは、報告書の山の前で物思いに沈んでいた。
「陛下……混乱が拡大すれば、王政に対する批判が高まりかねません」
側近の声に、彼女は静かに記録帳を開いた。
「それでも、黙っていたら──それこそ、民に背を向けた統治になる」
そして、こう結んだ。
「これは穀物の問題ではない。統治の魂が問われている」
♦
その夜、王都議会の特別臨時会が招集された。
春の宵、王都は霞むような宵闇に包まれながらも、議事堂だけは異様な熱を帯びていた。石畳の階段を昇る革靴の音、傍聴席を埋め尽くす市民と記者の低いざわめき、そして議員たちの視線の交差――すべてが、ただならぬ決定が下される予感を孕んでいた。
場内は薄暗く調光され、各議員席には一枚の布告案が丁寧に配布されていた。紙をめくる音すら慎重で、咳払いひとつで視線が集まるほど、空気は緊張に満ちていた。
そして、演壇にアウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアが静かに歩み出た。
王女でありながら、彼女は宝冠も礼装も纏わなかった。白銀の刺繍が施された紺のガウン。王印のブローチだけが、その立場を物語っていた。だが、その歩みと、立ち姿に宿る気配は、誰よりも重かった。
「王都市民諸氏、そして王国各地の民よ」
その第一声が放たれた瞬間、議場の全員が息を呑んだ。
「今、この国の街角には、空腹に耐えかねた者たちがいます。パンの欠片を奪い合い、扉の前で母に縋り、泣き叫ぶ子どもたちがいます。貴族の邸からは焼きたての香りが漂う一方で、倉庫には三万袋の麦が、黙して眠っています」
彼女の語調は穏やかだった。しかしその静けさは、雷鳴よりも深く響いた。
「わたくしは、王国最大の備蓄倉庫をこの目で見てきました。高く積まれ、誰にも触れられずに眠る麦の山。理屈ではそれは完璧な備えかもしれません。けれど、飢えた者の目には、それは希望ではなく、幻影です」
ざわ……と微かな波紋が広がる。沈黙の中で、誰かの椅子が軋む音が響いた。
「理由は挙げられました。『経済の安定』、『市場の調整』、『インフレの抑制』――そして、『非常時ではない』」
アウレリアは一度、言葉を止めた。わずかに眉を寄せる。続けるその声には、痛みと怒りと、決意が混ざっていた。
「けれど、わたくしは問います」
彼女は演壇の縁に両手を置き、前へと体を傾ける。
「空腹とは、非常事態ではないのですか?」
議場が凍りついたかのように静まる。
「子どもの泣き声は、警報ではないのですか?」
席のあちこちで目を逸らす者がいた。誰もが、その問いを否定できなかった。
「わたくしはこの事態を、“飢え”ではなく、“信頼の喪失”だと捉えています。制度が人を支えず、法が命を軽んじるとき、国は音もなく崩れるのです」
彼女は、手元の布告案を高く掲げた。
「よって、ここに宣言いたします」
言葉は飾りを排し、端的に核心を突いていた。
一、王国備蓄麦の段階的市場放出を実施する。放出は価格安定委員会の管理下で行い、混乱を避けつつ速やかに供給を始める。
二、今期中の減反政策を全面凍結。各地の麦農家に対する播種支援金を再交付し、耕作再開を後押しする。
三、農務省・財務省の管轄にある食糧統制機構を再編し、合同監査局を新設。備蓄・流通を常時監視・報告対象とする。
四、王国法制局に『食の安全保障』を王国の国是と定める王令草案の起案を命じる。
「これは、麦の話ではありません。政への信頼、そのものの問題なのです」
彼女は静かに布告案を下ろし、最後に一言を加えた。
「誰も飢えさせない。それが“政”の最低限の誇りであり、“王”の名に託された責務です」
その場には、言葉にならぬ静けさが落ちた。
そして、若い議員がひとり、立ち上がり拍手を送った。その音が、春の雪解けのように徐々に議場を満たしていく。
やがて、改革派、そして保守の一部までもが立ち上がり、議場の天井が震えるほどの拍手が巻き起こった。
◆
数日後、王都の市場には、麦が戻ってきた。
通りには久しぶりにパンの香りが漂い、子どもたちの笑顔が並んだ。
農村では凍っていた畑が再び耕され、馬の蹄と鋤の音が大地を揺らした。春の土に種が撒かれ、希望が埋められた。
王宮では合同監査局が設置され、備蓄と流通の透明化が着実に進められていた。書面ではなく現場の声に応える政が、徐々に姿を取り戻していた。
◆
その夜。
アウレリアは静かな書斎にひとり座り、記録帳を開いた。
硯に墨をすり、羽ペンをとり、真新しい頁にこう記す。
「人は理屈で動かない。だが、空腹はすべての真実を暴く」
そして、少し間を空けて、続けた。
「正しさとは、声高な主張ではなく、空腹を癒す手に宿る」
筆を置くと、彼女はしばし目を閉じた。
その静かな吐息に、灯火が微かに揺れた。