不遇に気付かない本好き令嬢は凶悪と噂される黒騎士に求婚される
黒狼のような鋭い目付きの彼は、私にこう言った。
「婚姻届にサインしろ。今すぐにだ」
呆然とする私を見つめ、なぜか黒いオーラを放つ彼は、全身に漆黒の鎧を身に付けた黒騎士――ギディオン・リュゲート。騎士の中でも特に戦闘能力の高い者は、黒騎士の称号と専用の鎧を与えられるが、彼もその一人だ。
黒騎士は常に戦いの前線に出ることを強いられるため、彼の目の周りには大きな火傷の痕が残っている。他にも体のあちこちに傷痕があり、敵を威圧するためか、表情は常に引き締まっている。眉間に寄った濃いシワは、激しい怒りを露にしているよう。
そんな彼がなぜ私に婚姻届を突き出しているか、理解不能なので少し思い返してみることにした。なんでもない、彼との出会いから――。
***
「黒騎士様、脚を引き摺っておいでですが、治療は受けないのですか?」
思えば、私の方から声をかけたのだ。隣国との些細ないざこざを解決するため駆り出された黒騎士たちが、圧倒的な武力を行使して早々に問題を解決し、帰還した夕暮れ時だった。
黒騎士ギディオンは、上手く上がらないであろう脚を無理やりに動かしながら、戻ってきたばかりの王城の門を出ようとしていた。
「その脚、早く治療しないと長引きますよ」
「……なんだ、お前は」
不審な女を見る目付きで睨まれるが、そんなことより脚の方が気になってしまう。引き摺り方からして、怪我はかなり酷そうだったから。
「私、ノエル・ヘンダーと申します。普段は王城の蔵書を管理しております」
「名前なんか聞いていない。なんの用で話しかけたのか聞いている」
「だから、その脚。放っておくと使い物にならなくなりますよ」
「……それだけか?」
「それだけです」
自己紹介も程々に脚の怪我について脅しをかけると、彼は驚いたように眉を引きつらせた。
「お前……俺を知らないのか……?」
全く脚と関係のない質問を投げかけられて、脳内に疑問符を浮かべたとき、薄らと周囲の人の声が聞こえた。
「黒騎士のギディオン様、今日は一段と不機嫌そうね……きっと戦い足りないのだわ……」
「凶悪騎士だもの。何人殺せば気が済むのかしら……」
「先の戦いでも狂乱めいた戦いぶりだったらしい……恐ろしいから、早くどこかへ行ってくれないだろうか……」
口々に吐かれる黒騎士の話題に、私はこっそり耳を傾ける。皆、遠巻きに彼の悪い噂を口にしていた。そこでようやく理解したのだ、彼が人々に恐れ戦かれていることを。
黒騎士はその特別な鎧で〝最強〟であることを証明するが、ゆえに人々にも恐れられる存在だ。圧倒的な強さを得た代わりに、その強さが無意味に人を傷つけるのでは、と一般人に遠ざけられる。そんな失礼にも程がある噂が渦巻いていることは知っていたが、にしたって酷すぎる。
彼ら黒騎士は誰よりも危険な場に向かい、様々な危機を乗り越え、非力な私たちを守ってくれている。時には体の一部を欠損し、名誉だなんだと無意味な称号を与えられ、少ない褒賞金で隠居する者もいる。そんな、常に危険と隣り合わせの勇気ある黒騎士を、遠巻きにして悪く言うだなんて。恩を仇で返しているようなものだ。
「……俺はここにいるべきではない。お前も早くあっちへ行け」
彼の伸びた黒い前髪が、目元に影をつくる。前髪の隙間から僅かに見える赤い瞳は、どこか寂しげに映った。
そしてまた足を引き摺って門を出ようとする彼に、私は懲りずに問いかけた。
「その脚はどうするのですか」
「自分でなんとかする」
「王城の治療師がダメなら、いい治療院を紹介しましょうか?」
「必要ない。俺が行くと治療師が失神してしまう」
遅い足で構わず門を出ようとする彼の腕を、私は思わず掴んで言った。
「それなら私が治療します!」
「……なに?」
振り向いた彼の目は、鋭さを失い丸くなっていた。眉は非対称に吊り上がり、驚愕ともとれる表情をしている。
「な、なにを言っているんだ、お前は……?」
「治療の経験はありませんが、医学書ならいくつか読んだことがあります。あなたは大雑把な雰囲気がありますし、私の方が上手く治療できるかもしれません」
「そういうことを言っているんじゃない!」
声を荒らげた黒騎士を、周りの人々は小さく悲鳴を漏らして、さらに遠ざけた。しかし私は腕の力を強め、もう一度脅しをかける。
「適当に処理なんてしたら、まともに歩けなくなります。治療師があなたを怖がることを危惧しているなら、少しでも知識のある者が治療をすべきです」
べつに知識に自信があるわけでもないけれど、少なくとも脚の怪我より周囲の視線を気にしている彼よりは、私の方が治療に適していると感じた。
一切腕を離さず瞳を捉える私に、彼は小さく問いかける。
「……俺が、怖くないのか?」
つまらない質問に、私は答えともとれない返事をした。
「世の中には、恐怖なんて感情よりも優先すべきことがあるんです」
早くゆっくり来てください、と彼の腕を引いた。私よりも大きな体躯の彼は、どっちなんだ……と呟きながらも、大人しく着いてきた。
――城の裏、人のいない草むらに彼を座らせ、医務室から治療用のバッグを借りてきた私は、うろ覚えの知識でギディオンの脚を治療した。まっすぐな棒を脚に宛てがい、布で強く固定する。激しい痛みが走っているはずなのに、彼の眉間は常にシワを寄せているため、察することができなかった。
「痛くありませんか?」
「痛い。もっと優しくしろ」
「あぁ、痛いんですか。顔が常に険しいので分かりませんでした」
「…………」
優しくってどのくらい? と考えながら治療に専念していると、彼が自ら口を開いた。
「……なぜ、俺にそんな態度ができる」
「どんな態度ですか?」
「不遜……というか、強気な態度だ。大人しそうな見た目をしている割に、さっきから随分はっきりと言うじゃないか」
「よく分かりませんが、強いて言うなら〝失う物もなく無敵だから〟でしょうか」
「……どういう意味だ?」
考えなしに答えると、ギディオンは心の底から不思議そうに顔を上げた。私は脚の治療に意識を集中しつつ、取り繕わずに答えた。
「友人もなく、夫も子供もおらず、あげく両親に見放されているので、失う物は何もないんです」
「……友人はともかく、なぜ結婚しない? お前くらいの歳の女は、結婚や子供を生きがいにする者も多いだろう」
「一応、男爵家の娘なので結婚を目指していた時期もありましたが、今の私の生きがいは本だけです。もちろん相性の合う方に出会えたら考えますが、まだ出会えていないので、活字さえあれば十分なんです」
変な女だ……と小さく聞こえた気がするが、聞こえなかったフリをする。
「そもそも、メガネにそばかすの地味な女を前にしたら、男性はみんな離れていきますから。結婚は難しいでしょうね」
おまけに髪は三つ編みで、地味の定番である三点セットが揃っている。歳だってもう二十五になるし、貴族社会では行き遅れだ。そう言って他人事のように笑うと、ギディオンは否定せず「そうか……」と呟く。自分で言っておいてなんだけれど、ひと言くらい否定があってもいいんじゃないだろうか。
「そういうわけで、失礼な態度をとって黒騎士様の怒りを買い殺されたところで、私に痛手はないのですよ。強いて言うなら、気になっている本の続きが読めなくなるくらいです」
「本好きにとっては、続きが読めず死ぬのは最悪の末路なんじゃないのか」
「その通りですが、よくお分かりですね」
意外にも本好きの気持ちに理解があるギディオン。もしかして、彼も本を読むのだろうか。彼の顔を覗いてみるが、表情はやはり変わらない。
いや、そんなわけないか。そう息を吐いて彼の脚に視線を戻し、全体を確認して頷く。
「はい、もう大丈夫です。私にはこの程度しかできませんが、放置するよりはよっぽどマシです。できれば安静にしてくださいね」
「……あぁ、助かった。ありがとう」
素直に礼を言われて笑みを返すと、彼は素早く目を逸らした。怪我のせいで熱でも出たのか、耳が赤い。早く寝た方がいい、と助言だけして立ち上がり、私はその場を離れた。
――以降、なぜか彼は私の務め場所を訪れるようになった。
「すごい数の蔵書だな。これをたった数人で管理しているのか?」
「はい。でも楽しいので苦ではありません」
「本当に本が好きなんだな……」
そんな他愛もない話をしにわざわざ仕事場を訪ねてくるギディオンは、他の女性陣には目もくれず私に声をかけてくる。まぁ、女性陣はみんな彼を恐れているのだから、当然なのだが……。
怪我は二十日もしないうちにすっかり良くなったらしく、問題なく歩けているので安心した。私の下手な治療で逆に長引いたら、因縁をつけられるかもしれない、と密かに気を張っていたから。
ただ不思議なのは、彼の態度だ。
あの出会いの日は私を妙な女だと認識していたはずなのに、いつの間にかやけに普通に接してきている。傷は多いけれど、勇ましく目鼻立ちのハッキリした男性的な色気を持つ顔は、黒騎士の鎧さえ脱げば多くの女性を虜にするはず。それなのに、どの女性よりも私とのくだらない会話を優先しているようだった。
王城では話し相手がいないのだろうか。そう同情して会話に応じていたけれど、ある日ギディオンが同僚と接しているところを目撃してしまった。同じ黒騎士の男性に腕を回され、楽しげに笑みをこぼしながら話す姿に、私は更なる疑問を覚えた。
話し相手いるじゃない、と。
相手が同性だからといって、私と違い友人という存在がいることには変わりない。わざわざ地味な女を訪ねなくとも、話し相手はいるじゃないか。周りに遠巻きにされているからといって、私と話す必要性を感じない。
それなのに、彼は頻繁に現れた。仕事で留守にするとき以外は、ほぼ毎日のように私を訪ねてくる。すれ違えば必ず声をかけ、私の予定を細かく聞いてくる。
休日に外出したときも、行きつけの本屋で待ち伏せされており、なぜか共に過ごすことになったり。楽しいおひとり様ライフが削られ、私は若干のストレスに頭を抱えた。
彼はべつに私を困らせようとしているわけではないらしく、私が本に集中していても、黙ってただそばにいてくれる程度には気を使ってくれていた。それは理解している。しかし、如何せん表情が怖い。黙って見つめてくる瞳が私の顔を貫きそうで、何度も集中力が切れてしまうのだ。
「あの、黒騎士様」
「ギディオンだ」
「……ギディオン様、そんなに見つめないでくれませんか?」
「……べつに見つめてなんかいない。そばかすの数を数えていただけだ」
「数が増えそうなのでやめてください」
指摘すれば妙な言い訳をして顔を逸らすし、自分の言ったことが恥ずかしいのかすぐに耳を赤くするし、本に視線を戻せばまた凝視してくるし……。
彼のことは嫌いではない。あまり害もなく寧ろ心地はいいのだけれど、そろそろ我慢が効かなくなっていた。
そんな折に、更なる憂鬱が私を襲った。
「ノエル、ご実家から手紙が届いているわよ」
「えっ……」
同じ蔵書管理の仕事を受け持つ同僚のシェリーが、ヘンダー家から届いたという私宛ての手紙を差し出す。家族からは見放されたはずなのに、いきなり手紙を送ってくるなんて、嫌な予感しかしない。
棚に立てかけた梯子に座り、手紙の内容を確認してみると、妹の婚約が正式に結ばれたという旨が記載されていた。さらに、その祝いを用意しろ、とも。
「ご実家からは何て?」
「妹の婚約祝いを寄こせって」
「あら、おめでとう……ちょっと待って。妹ってまさか、あなたの婚約者を寝盗ったっていう……?」
「そのまさかよ」
ため息をついた私の返答に、シェリーは大きな瞳をさらに見開いて、興味津々な様子で顔を近づけてくる。
「その妹の婚約相手はやっぱり……」
「私の元婚約者、オーガストって書いてあるわ」
「出た! バークレイ伯爵家の次男!」
なぜかテンションの上がるシェリーに、私は若干の面倒くささを感じる。しかし、シェリーが面白がるのも当然といえば当然だった。
なぜならシェリーの言う通り、私は元婚約者を妹に寝盗られているからだ。正確には『寝盗られた』というより、彼の想いが自然と妹の方へ傾いていったというだけの、よくある話なのだが。
社交的なオーガストは、親同士の決めた婚約相手である私にも、それなりに優しく接してくれていた。彼なりに歩み寄ろうと何度も話しかけてくれたが、私が本を読んでばかりだったせいで、きっとつまらなかったはずだ。本を読んでばかりの地味で可愛げのない私より、ふわふわとして愛嬌のある妹は、彼にとってとても魅力的だっただろう。気付いたときには、彼と妹は互いを見つめ合っていた。
「とんだ男ね、元婚約者の妹と婚約を結ぶだなんて」
「仕方ないわ。二人にとっては私の方が邪魔者だったんだもの。それに、私が彼の前で読書ばかり優先したのも良くなかったわ」
「だからって、わざわざヘンダー男爵と男爵夫人まで使って、ノエルを家から追い出したのはやりすぎだと思うわ」
当時の状況をよく知るシェリーは、怒る気のない私に代わって文句を言う。
「婚約を妹に譲るように、って家族に命令されたんでしょう? きっとオーガストが何か言ったんだわ。ノエルが王城で働きはじめたのは随分前からなのに、いきなり『王城の寮に住め』って言い出したのも、彼の入れ知恵よ。ノエルを体良く男爵家から追い出して、挙句の果てには『婚約祝いを寄こせ』ですって? 最低よ、あなたの家族も、オーガストも」
「シェリー、どうしてあなたが怒ってるの?」
「逆になんでノエルは落ち着いていられるのよ」
私にまで呆れたような視線を向けるシェリーは、まだどこかスッキリとしない表情だ。シェリーがなぜそこまで私の事情に感情を露わにするのか、分からない私は首を傾げる。
昔から、地味で社交性のない活字中毒な私より、ひと目で美少女だと認識できる可愛らしい妹を、両親は溺愛していた。まるで私をいないものとでも思っているかのように、無視されるのが当然だった。
だから蔵書管理の仕事を始めて三年が経っても、シェリーの向けてくる態度が何の意味を持つものなのか、理解できないままだ。
「まったく……ノエルって変わらないわね」
「なにが?」
「いいわ……。それより、婚約祝いはどうするの?」
「まぁ、贈るしかないでしょうね。この場合、まとまった金銭を要求されているんでしょうし、それなりに包まないと……」
「うそっ、律儀に贈ってあげるわけ?」
「求められていることには応えないと。なにせ貧乏男爵家ですし、私には結婚の予定もないですし」
「あなたねぇ……」
自分を犠牲にしすぎじゃない? とため息を吐かれたところで、もう一つの憂鬱である男性がいつものように私を訪ねてきた。
黒騎士、ギディオンだ。
「何の話だ?」
「きゃあっ⁉ い、いえ、なんでもないです!」
先ほどまで私に向けていた態度とは打って変わって汐らしくなったシェリーは、そそくさとその場を離れる。ギディオンはシェリーの後ろ姿を横目に、堂々と距離を詰めてくる。訓練の後なのか、鎧を脱いだ筋肉質な腕を汗が滴っている。
「なんだ、お前にも友人がいるんじゃないか」
「シェリーは友人ではありません。同僚です」
「そうなのか? 随分と親しげに見えたが」
「『友人になろう』なんて会話をしたことありませんから」
「……なるほど、確かにお前と友人になるのは難しそうだな」
「どういう意味ですか」
意味深な言葉に睨みを利かせると、ギディオンは小さく笑みをこぼしながら、なんでもないと告げる。その態度に腹が立って、つい言い返してしまった。
「ギディオン様こそ、こうして私を訪ねて来られなくとも、話し相手がいらっしゃるじゃありませんか」
「……何の話だ?」
「惚けないでください。知っているんですよ、同僚の黒騎士様と仲良くされていることを」
疑問符を浮かべて眉をひそめるギディオンを見たら、私の苛立ちは増してしまう。そして単刀直入に聞いてみたのだ。
「ギディオン様、たかが怪我を治療しただけの女に毎日毎日会いに来て、いったい何が目的ですか?」
「目的……?」
壁一面の蔵書を整理しながら問いかけた。しかしギディオンは首を傾げる。
「私にどういう目的で声をかけているのか、聞いているんです」
少し苛立って聞き直すと、ギディオンは口篭る。その態度に、やはり何か理由があるのだと察することができた。
「最初は治療をしたことに恩を感じてくださっているのかとも思いましたが、なんだかそういう感じでもないですし。本に興味があるのかというと、そういうわけでもないですよね?」
「そ、それは……」
分かりやすく顔を逸らすギディオン。そんなに分かりやすくて黒騎士が務まるのか、と些か心配になる――が、この際もっと強気で聞いてみようと思った。
「一体なんなんですか? 御用があるならハッキリ仰ってください。女性と話したいだけなら、鎧を脱いで街にでも行ってください。ギディオン様ならたくさんお相手してもらえますよ」
「なっ……⁉」
ギディオン様の漏れ出た声に、驚きと苛立ちが含まれているのが理解できる。ちょっと嫌味が過ぎたか、とさすがに反省したが、顔は見ずに返答を待った。
鋭い視線が眉間をくり抜きそうなほど刺さっていることに、気づいていたからだ。
「……そうか、本当はもう少し段階を踏もうと思っていたが、お前がそこまで聞きたいなら……ハッキリと言ってやろう」
不穏な気配を察知して思わず顔を向けると、目の前に一枚の紙切れが突き出された。
一番上に、婚姻届と明記されている。
「……なんですか、これは?」
「婚姻届だ」
「どうして婚姻届を私に見せるんですか? 証人欄にサインしたらいいんですか?」
「違う。お前がサインするのは〝妻〟の欄だ」
え? と声を漏らしてすぐ、ギディオンは告げた。
「俺と結婚しろ、ノエル・ヘンダー」
――頭が真っ白になり、言葉が出なかった。そんな私に一歩距離を詰めるギディオンは、容赦なく話を続けてくる。
「お前は大人しそうな見た目のわりに俺を恐れない妙な女だが、人を偏見で選ばず平等に接するところは好感が持てる。ドライなようでいて人が良い面もあるし、本好きなのに言葉に品性を感じないところも面白い」
「なっ……」
褒めているのか貶しているのか分からず反応が遅れる。その遅れた数瞬で、ギディオンはさらに続けた。
「お前は『相性の合う男に出会えたら結婚を考える』と言ったな? 俺はお前が本を読む時間を邪魔もしないし、蔵書管理の仕事も自由にさせてやる。子供も強制はしない。常にお前の気持ちを尊重すると誓う。これは『相性が合う』と言っても過言ではないのでは?」
「……なんですか? つまり、私を『好きだ』と言いたいのですか?」
結婚の利点をいくつか挙げられる中でようやく思考が整理されてきた私が問うと、ギディオンは途端に頬を赤らめた。そして、少しして決意したように返答する。
「そうだ。俺はお前を好いているから、妻にしたい」
――なんて真正面から真摯な言葉だろう。一瞬そんなことを思ってしまったが、すぐに『なぜ?』と疑問が脳を占める。
「あなたに愛されるようなことは、全くしていませんが……」
「過程はどうだっていい。俺の今の気持ちがそうなんだから、理由付けなんて必要ないだろう」
「なんて勇ましい……」
貴重な蔵書を落としそうになって、必死に手の力を込め直す。
「えーっと……お気持ちは嬉しいのですが、その……」
正直、断るべきか受け入れるべきかは判断がつかなかった。提示された利点は確かに魅力的だったし、波長も合わないことはない。面と向かって想いを告げられたことなんか経験がないから、なんだか嬉しいような気もしてしまう。
しかし、私も彼を好きかと問われると疑問が残る。私はまだそこまで彼を知らない。本ばかり読んできたせいで、恋の表現技法はいくらか知っているが、それらが本当に起こる現象なのかも分からないのだ。
動悸は今もしているが、ただの動揺かもしれない。顔は燃えるように熱いが、病気かもしれない。そんなことを考えたら、ますます恋や愛が理解不能になってくる。
顔を見れずに蔵書を見つめると、再び視界に紙切れが映し出された。ギディオンが顔の赤みを包み隠さず、婚姻届を突き出している。
「さっさと書け。そんな顔をしておいて断るなんて許さない」
「そ、そんな顔とはどんな……」
「女の顔をしてるだろう!」
「女の顔とはなんですか! 具体的に説明してください!」
混乱して説明を求める私に、ギディオンは眉間のシワを濃くして舌打ちする。そして綺麗に蔵書が並んだ棚に、大きな音を鳴らして手をついた。顔の横に青筋が浮かんだ筋肉質な腕が勢いよく過ぎったことで、私は喉を鳴らしてしまう。
「いいから、婚姻届にサインしろ。今すぐにだ」
とても理想的なプロポーズとは思えない態度なのに、なぜか動悸は治まらず、激しくなる一方で。私は口をついて、
「……はい」
と返事をしてしまったのだった。
「婚姻届にサインしろ。今すぐにだ」
呆然とする私を見つめ、なぜか黒いオーラを放つ彼は、全身に漆黒の鎧を身に付けた黒騎士――ギディオン・リュゲート。騎士の中でも特に戦闘能力の高い者は、黒騎士の称号と専用の鎧を与えられるが、彼もその一人だ。
黒騎士は常に戦いの前線に出ることを強いられるため、彼の目の周りには大きな火傷の痕が残っている。他にも体のあちこちに傷痕があり、敵を威圧するためか、表情は常に引き締まっている。眉間に寄った濃いシワは、激しい怒りを露にしているよう。
そんな彼がなぜ私に婚姻届を突き出しているか、理解不能なので少し思い返してみることにした。なんでもない、彼との出会いから――。
***
「黒騎士様、脚を引き摺っておいでですが、治療は受けないのですか?」
思えば、私の方から声をかけたのだ。隣国との些細ないざこざを解決するため駆り出された黒騎士たちが、圧倒的な武力を行使して早々に問題を解決し、帰還した夕暮れ時だった。
黒騎士ギディオンは、上手く上がらないであろう脚を無理やりに動かしながら、戻ってきたばかりの王城の門を出ようとしていた。
「その脚、早く治療しないと長引きますよ」
「……なんだ、お前は」
不審な女を見る目付きで睨まれるが、そんなことより脚の方が気になってしまう。引き摺り方からして、怪我はかなり酷そうだったから。
「私、ノエル・ヘンダーと申します。普段は王城の蔵書を管理しております」
「名前なんか聞いていない。なんの用で話しかけたのか聞いている」
「だから、その脚。放っておくと使い物にならなくなりますよ」
「……それだけか?」
「それだけです」
自己紹介も程々に脚の怪我について脅しをかけると、彼は驚いたように眉を引きつらせた。
「お前……俺を知らないのか……?」
全く脚と関係のない質問を投げかけられて、脳内に疑問符を浮かべたとき、薄らと周囲の人の声が聞こえた。
「黒騎士のギディオン様、今日は一段と不機嫌そうね……きっと戦い足りないのだわ……」
「凶悪騎士だもの。何人殺せば気が済むのかしら……」
「先の戦いでも狂乱めいた戦いぶりだったらしい……恐ろしいから、早くどこかへ行ってくれないだろうか……」
口々に吐かれる黒騎士の話題に、私はこっそり耳を傾ける。皆、遠巻きに彼の悪い噂を口にしていた。そこでようやく理解したのだ、彼が人々に恐れ戦かれていることを。
黒騎士はその特別な鎧で〝最強〟であることを証明するが、ゆえに人々にも恐れられる存在だ。圧倒的な強さを得た代わりに、その強さが無意味に人を傷つけるのでは、と一般人に遠ざけられる。そんな失礼にも程がある噂が渦巻いていることは知っていたが、にしたって酷すぎる。
彼ら黒騎士は誰よりも危険な場に向かい、様々な危機を乗り越え、非力な私たちを守ってくれている。時には体の一部を欠損し、名誉だなんだと無意味な称号を与えられ、少ない褒賞金で隠居する者もいる。そんな、常に危険と隣り合わせの勇気ある黒騎士を、遠巻きにして悪く言うだなんて。恩を仇で返しているようなものだ。
「……俺はここにいるべきではない。お前も早くあっちへ行け」
彼の伸びた黒い前髪が、目元に影をつくる。前髪の隙間から僅かに見える赤い瞳は、どこか寂しげに映った。
そしてまた足を引き摺って門を出ようとする彼に、私は懲りずに問いかけた。
「その脚はどうするのですか」
「自分でなんとかする」
「王城の治療師がダメなら、いい治療院を紹介しましょうか?」
「必要ない。俺が行くと治療師が失神してしまう」
遅い足で構わず門を出ようとする彼の腕を、私は思わず掴んで言った。
「それなら私が治療します!」
「……なに?」
振り向いた彼の目は、鋭さを失い丸くなっていた。眉は非対称に吊り上がり、驚愕ともとれる表情をしている。
「な、なにを言っているんだ、お前は……?」
「治療の経験はありませんが、医学書ならいくつか読んだことがあります。あなたは大雑把な雰囲気がありますし、私の方が上手く治療できるかもしれません」
「そういうことを言っているんじゃない!」
声を荒らげた黒騎士を、周りの人々は小さく悲鳴を漏らして、さらに遠ざけた。しかし私は腕の力を強め、もう一度脅しをかける。
「適当に処理なんてしたら、まともに歩けなくなります。治療師があなたを怖がることを危惧しているなら、少しでも知識のある者が治療をすべきです」
べつに知識に自信があるわけでもないけれど、少なくとも脚の怪我より周囲の視線を気にしている彼よりは、私の方が治療に適していると感じた。
一切腕を離さず瞳を捉える私に、彼は小さく問いかける。
「……俺が、怖くないのか?」
つまらない質問に、私は答えともとれない返事をした。
「世の中には、恐怖なんて感情よりも優先すべきことがあるんです」
早くゆっくり来てください、と彼の腕を引いた。私よりも大きな体躯の彼は、どっちなんだ……と呟きながらも、大人しく着いてきた。
――城の裏、人のいない草むらに彼を座らせ、医務室から治療用のバッグを借りてきた私は、うろ覚えの知識でギディオンの脚を治療した。まっすぐな棒を脚に宛てがい、布で強く固定する。激しい痛みが走っているはずなのに、彼の眉間は常にシワを寄せているため、察することができなかった。
「痛くありませんか?」
「痛い。もっと優しくしろ」
「あぁ、痛いんですか。顔が常に険しいので分かりませんでした」
「…………」
優しくってどのくらい? と考えながら治療に専念していると、彼が自ら口を開いた。
「……なぜ、俺にそんな態度ができる」
「どんな態度ですか?」
「不遜……というか、強気な態度だ。大人しそうな見た目をしている割に、さっきから随分はっきりと言うじゃないか」
「よく分かりませんが、強いて言うなら〝失う物もなく無敵だから〟でしょうか」
「……どういう意味だ?」
考えなしに答えると、ギディオンは心の底から不思議そうに顔を上げた。私は脚の治療に意識を集中しつつ、取り繕わずに答えた。
「友人もなく、夫も子供もおらず、あげく両親に見放されているので、失う物は何もないんです」
「……友人はともかく、なぜ結婚しない? お前くらいの歳の女は、結婚や子供を生きがいにする者も多いだろう」
「一応、男爵家の娘なので結婚を目指していた時期もありましたが、今の私の生きがいは本だけです。もちろん相性の合う方に出会えたら考えますが、まだ出会えていないので、活字さえあれば十分なんです」
変な女だ……と小さく聞こえた気がするが、聞こえなかったフリをする。
「そもそも、メガネにそばかすの地味な女を前にしたら、男性はみんな離れていきますから。結婚は難しいでしょうね」
おまけに髪は三つ編みで、地味の定番である三点セットが揃っている。歳だってもう二十五になるし、貴族社会では行き遅れだ。そう言って他人事のように笑うと、ギディオンは否定せず「そうか……」と呟く。自分で言っておいてなんだけれど、ひと言くらい否定があってもいいんじゃないだろうか。
「そういうわけで、失礼な態度をとって黒騎士様の怒りを買い殺されたところで、私に痛手はないのですよ。強いて言うなら、気になっている本の続きが読めなくなるくらいです」
「本好きにとっては、続きが読めず死ぬのは最悪の末路なんじゃないのか」
「その通りですが、よくお分かりですね」
意外にも本好きの気持ちに理解があるギディオン。もしかして、彼も本を読むのだろうか。彼の顔を覗いてみるが、表情はやはり変わらない。
いや、そんなわけないか。そう息を吐いて彼の脚に視線を戻し、全体を確認して頷く。
「はい、もう大丈夫です。私にはこの程度しかできませんが、放置するよりはよっぽどマシです。できれば安静にしてくださいね」
「……あぁ、助かった。ありがとう」
素直に礼を言われて笑みを返すと、彼は素早く目を逸らした。怪我のせいで熱でも出たのか、耳が赤い。早く寝た方がいい、と助言だけして立ち上がり、私はその場を離れた。
――以降、なぜか彼は私の務め場所を訪れるようになった。
「すごい数の蔵書だな。これをたった数人で管理しているのか?」
「はい。でも楽しいので苦ではありません」
「本当に本が好きなんだな……」
そんな他愛もない話をしにわざわざ仕事場を訪ねてくるギディオンは、他の女性陣には目もくれず私に声をかけてくる。まぁ、女性陣はみんな彼を恐れているのだから、当然なのだが……。
怪我は二十日もしないうちにすっかり良くなったらしく、問題なく歩けているので安心した。私の下手な治療で逆に長引いたら、因縁をつけられるかもしれない、と密かに気を張っていたから。
ただ不思議なのは、彼の態度だ。
あの出会いの日は私を妙な女だと認識していたはずなのに、いつの間にかやけに普通に接してきている。傷は多いけれど、勇ましく目鼻立ちのハッキリした男性的な色気を持つ顔は、黒騎士の鎧さえ脱げば多くの女性を虜にするはず。それなのに、どの女性よりも私とのくだらない会話を優先しているようだった。
王城では話し相手がいないのだろうか。そう同情して会話に応じていたけれど、ある日ギディオンが同僚と接しているところを目撃してしまった。同じ黒騎士の男性に腕を回され、楽しげに笑みをこぼしながら話す姿に、私は更なる疑問を覚えた。
話し相手いるじゃない、と。
相手が同性だからといって、私と違い友人という存在がいることには変わりない。わざわざ地味な女を訪ねなくとも、話し相手はいるじゃないか。周りに遠巻きにされているからといって、私と話す必要性を感じない。
それなのに、彼は頻繁に現れた。仕事で留守にするとき以外は、ほぼ毎日のように私を訪ねてくる。すれ違えば必ず声をかけ、私の予定を細かく聞いてくる。
休日に外出したときも、行きつけの本屋で待ち伏せされており、なぜか共に過ごすことになったり。楽しいおひとり様ライフが削られ、私は若干のストレスに頭を抱えた。
彼はべつに私を困らせようとしているわけではないらしく、私が本に集中していても、黙ってただそばにいてくれる程度には気を使ってくれていた。それは理解している。しかし、如何せん表情が怖い。黙って見つめてくる瞳が私の顔を貫きそうで、何度も集中力が切れてしまうのだ。
「あの、黒騎士様」
「ギディオンだ」
「……ギディオン様、そんなに見つめないでくれませんか?」
「……べつに見つめてなんかいない。そばかすの数を数えていただけだ」
「数が増えそうなのでやめてください」
指摘すれば妙な言い訳をして顔を逸らすし、自分の言ったことが恥ずかしいのかすぐに耳を赤くするし、本に視線を戻せばまた凝視してくるし……。
彼のことは嫌いではない。あまり害もなく寧ろ心地はいいのだけれど、そろそろ我慢が効かなくなっていた。
そんな折に、更なる憂鬱が私を襲った。
「ノエル、ご実家から手紙が届いているわよ」
「えっ……」
同じ蔵書管理の仕事を受け持つ同僚のシェリーが、ヘンダー家から届いたという私宛ての手紙を差し出す。家族からは見放されたはずなのに、いきなり手紙を送ってくるなんて、嫌な予感しかしない。
棚に立てかけた梯子に座り、手紙の内容を確認してみると、妹の婚約が正式に結ばれたという旨が記載されていた。さらに、その祝いを用意しろ、とも。
「ご実家からは何て?」
「妹の婚約祝いを寄こせって」
「あら、おめでとう……ちょっと待って。妹ってまさか、あなたの婚約者を寝盗ったっていう……?」
「そのまさかよ」
ため息をついた私の返答に、シェリーは大きな瞳をさらに見開いて、興味津々な様子で顔を近づけてくる。
「その妹の婚約相手はやっぱり……」
「私の元婚約者、オーガストって書いてあるわ」
「出た! バークレイ伯爵家の次男!」
なぜかテンションの上がるシェリーに、私は若干の面倒くささを感じる。しかし、シェリーが面白がるのも当然といえば当然だった。
なぜならシェリーの言う通り、私は元婚約者を妹に寝盗られているからだ。正確には『寝盗られた』というより、彼の想いが自然と妹の方へ傾いていったというだけの、よくある話なのだが。
社交的なオーガストは、親同士の決めた婚約相手である私にも、それなりに優しく接してくれていた。彼なりに歩み寄ろうと何度も話しかけてくれたが、私が本を読んでばかりだったせいで、きっとつまらなかったはずだ。本を読んでばかりの地味で可愛げのない私より、ふわふわとして愛嬌のある妹は、彼にとってとても魅力的だっただろう。気付いたときには、彼と妹は互いを見つめ合っていた。
「とんだ男ね、元婚約者の妹と婚約を結ぶだなんて」
「仕方ないわ。二人にとっては私の方が邪魔者だったんだもの。それに、私が彼の前で読書ばかり優先したのも良くなかったわ」
「だからって、わざわざヘンダー男爵と男爵夫人まで使って、ノエルを家から追い出したのはやりすぎだと思うわ」
当時の状況をよく知るシェリーは、怒る気のない私に代わって文句を言う。
「婚約を妹に譲るように、って家族に命令されたんでしょう? きっとオーガストが何か言ったんだわ。ノエルが王城で働きはじめたのは随分前からなのに、いきなり『王城の寮に住め』って言い出したのも、彼の入れ知恵よ。ノエルを体良く男爵家から追い出して、挙句の果てには『婚約祝いを寄こせ』ですって? 最低よ、あなたの家族も、オーガストも」
「シェリー、どうしてあなたが怒ってるの?」
「逆になんでノエルは落ち着いていられるのよ」
私にまで呆れたような視線を向けるシェリーは、まだどこかスッキリとしない表情だ。シェリーがなぜそこまで私の事情に感情を露わにするのか、分からない私は首を傾げる。
昔から、地味で社交性のない活字中毒な私より、ひと目で美少女だと認識できる可愛らしい妹を、両親は溺愛していた。まるで私をいないものとでも思っているかのように、無視されるのが当然だった。
だから蔵書管理の仕事を始めて三年が経っても、シェリーの向けてくる態度が何の意味を持つものなのか、理解できないままだ。
「まったく……ノエルって変わらないわね」
「なにが?」
「いいわ……。それより、婚約祝いはどうするの?」
「まぁ、贈るしかないでしょうね。この場合、まとまった金銭を要求されているんでしょうし、それなりに包まないと……」
「うそっ、律儀に贈ってあげるわけ?」
「求められていることには応えないと。なにせ貧乏男爵家ですし、私には結婚の予定もないですし」
「あなたねぇ……」
自分を犠牲にしすぎじゃない? とため息を吐かれたところで、もう一つの憂鬱である男性がいつものように私を訪ねてきた。
黒騎士、ギディオンだ。
「何の話だ?」
「きゃあっ⁉ い、いえ、なんでもないです!」
先ほどまで私に向けていた態度とは打って変わって汐らしくなったシェリーは、そそくさとその場を離れる。ギディオンはシェリーの後ろ姿を横目に、堂々と距離を詰めてくる。訓練の後なのか、鎧を脱いだ筋肉質な腕を汗が滴っている。
「なんだ、お前にも友人がいるんじゃないか」
「シェリーは友人ではありません。同僚です」
「そうなのか? 随分と親しげに見えたが」
「『友人になろう』なんて会話をしたことありませんから」
「……なるほど、確かにお前と友人になるのは難しそうだな」
「どういう意味ですか」
意味深な言葉に睨みを利かせると、ギディオンは小さく笑みをこぼしながら、なんでもないと告げる。その態度に腹が立って、つい言い返してしまった。
「ギディオン様こそ、こうして私を訪ねて来られなくとも、話し相手がいらっしゃるじゃありませんか」
「……何の話だ?」
「惚けないでください。知っているんですよ、同僚の黒騎士様と仲良くされていることを」
疑問符を浮かべて眉をひそめるギディオンを見たら、私の苛立ちは増してしまう。そして単刀直入に聞いてみたのだ。
「ギディオン様、たかが怪我を治療しただけの女に毎日毎日会いに来て、いったい何が目的ですか?」
「目的……?」
壁一面の蔵書を整理しながら問いかけた。しかしギディオンは首を傾げる。
「私にどういう目的で声をかけているのか、聞いているんです」
少し苛立って聞き直すと、ギディオンは口篭る。その態度に、やはり何か理由があるのだと察することができた。
「最初は治療をしたことに恩を感じてくださっているのかとも思いましたが、なんだかそういう感じでもないですし。本に興味があるのかというと、そういうわけでもないですよね?」
「そ、それは……」
分かりやすく顔を逸らすギディオン。そんなに分かりやすくて黒騎士が務まるのか、と些か心配になる――が、この際もっと強気で聞いてみようと思った。
「一体なんなんですか? 御用があるならハッキリ仰ってください。女性と話したいだけなら、鎧を脱いで街にでも行ってください。ギディオン様ならたくさんお相手してもらえますよ」
「なっ……⁉」
ギディオン様の漏れ出た声に、驚きと苛立ちが含まれているのが理解できる。ちょっと嫌味が過ぎたか、とさすがに反省したが、顔は見ずに返答を待った。
鋭い視線が眉間をくり抜きそうなほど刺さっていることに、気づいていたからだ。
「……そうか、本当はもう少し段階を踏もうと思っていたが、お前がそこまで聞きたいなら……ハッキリと言ってやろう」
不穏な気配を察知して思わず顔を向けると、目の前に一枚の紙切れが突き出された。
一番上に、婚姻届と明記されている。
「……なんですか、これは?」
「婚姻届だ」
「どうして婚姻届を私に見せるんですか? 証人欄にサインしたらいいんですか?」
「違う。お前がサインするのは〝妻〟の欄だ」
え? と声を漏らしてすぐ、ギディオンは告げた。
「俺と結婚しろ、ノエル・ヘンダー」
――頭が真っ白になり、言葉が出なかった。そんな私に一歩距離を詰めるギディオンは、容赦なく話を続けてくる。
「お前は大人しそうな見た目のわりに俺を恐れない妙な女だが、人を偏見で選ばず平等に接するところは好感が持てる。ドライなようでいて人が良い面もあるし、本好きなのに言葉に品性を感じないところも面白い」
「なっ……」
褒めているのか貶しているのか分からず反応が遅れる。その遅れた数瞬で、ギディオンはさらに続けた。
「お前は『相性の合う男に出会えたら結婚を考える』と言ったな? 俺はお前が本を読む時間を邪魔もしないし、蔵書管理の仕事も自由にさせてやる。子供も強制はしない。常にお前の気持ちを尊重すると誓う。これは『相性が合う』と言っても過言ではないのでは?」
「……なんですか? つまり、私を『好きだ』と言いたいのですか?」
結婚の利点をいくつか挙げられる中でようやく思考が整理されてきた私が問うと、ギディオンは途端に頬を赤らめた。そして、少しして決意したように返答する。
「そうだ。俺はお前を好いているから、妻にしたい」
――なんて真正面から真摯な言葉だろう。一瞬そんなことを思ってしまったが、すぐに『なぜ?』と疑問が脳を占める。
「あなたに愛されるようなことは、全くしていませんが……」
「過程はどうだっていい。俺の今の気持ちがそうなんだから、理由付けなんて必要ないだろう」
「なんて勇ましい……」
貴重な蔵書を落としそうになって、必死に手の力を込め直す。
「えーっと……お気持ちは嬉しいのですが、その……」
正直、断るべきか受け入れるべきかは判断がつかなかった。提示された利点は確かに魅力的だったし、波長も合わないことはない。面と向かって想いを告げられたことなんか経験がないから、なんだか嬉しいような気もしてしまう。
しかし、私も彼を好きかと問われると疑問が残る。私はまだそこまで彼を知らない。本ばかり読んできたせいで、恋の表現技法はいくらか知っているが、それらが本当に起こる現象なのかも分からないのだ。
動悸は今もしているが、ただの動揺かもしれない。顔は燃えるように熱いが、病気かもしれない。そんなことを考えたら、ますます恋や愛が理解不能になってくる。
顔を見れずに蔵書を見つめると、再び視界に紙切れが映し出された。ギディオンが顔の赤みを包み隠さず、婚姻届を突き出している。
「さっさと書け。そんな顔をしておいて断るなんて許さない」
「そ、そんな顔とはどんな……」
「女の顔をしてるだろう!」
「女の顔とはなんですか! 具体的に説明してください!」
混乱して説明を求める私に、ギディオンは眉間のシワを濃くして舌打ちする。そして綺麗に蔵書が並んだ棚に、大きな音を鳴らして手をついた。顔の横に青筋が浮かんだ筋肉質な腕が勢いよく過ぎったことで、私は喉を鳴らしてしまう。
「いいから、婚姻届にサインしろ。今すぐにだ」
とても理想的なプロポーズとは思えない態度なのに、なぜか動悸は治まらず、激しくなる一方で。私は口をついて、
「……はい」
と返事をしてしまったのだった。

