治療不可能な恋をした
梨乃は視線を紙面に落としたまま、インクの先がかすかに揺れるのを感じた。ほんの一瞬、意識が逸れただけで字が乱れそうになり、思わず奥歯を噛みしめる。
胸の奥に重たい鼓動が響く。呼吸が浅くなるのを自覚しながらも、震えを悟られまいと手元に意識を集中させた。
署名欄に名前を書き入れると、手早く書類を差し出した。
「……あの、あちらの女性は?」
おずおずと尋ねると職員は視線を追い、すぐに「ああ……」と小さくため息をもらした。
「清野さんですか。最近こちらに配属されたんですが……実務経験があるという話で採用された割に、正直頼りにならなくて。ああやって注意力も散漫で、こちらがフォローに回ることも多いんですよ」
淡々とした口調の奥に、わずかな疲れがにじむ。
職員は書類を受け取って整えると、ふと声を落として梨乃に身を寄せた。
「それに……あの人、逢坂先生と幼馴染だってよく触れ回っていて……ここだけの話、先生に言いよるためだけにここを選んだんじゃないかって、私たちも扱いに困ってて……」
「え……」
「逢坂先生と仁科先生のご関係は、院内ではちらほら噂になっています。彼女のこともありますし……念のため注意してくださいね」
瞬間、梨乃の胸が詰まった。
理人とのことを公言した覚えはない。それでも、理人は付き合っていることを隠す気はなく、院内でも自然と知られている。
だからこそ……あの菜々美が近くにいることを思うと、自然と背筋がひやりとする。
冷や汗がじわりと背を伝い、梨乃はかすかな笑みを作ることで取り繕うしかなかった。