治療不可能な恋をした
梨乃は書類を整えながらも、視線の端に菜々美の存在を感じていた。目が合うと、鋭く刺すようなまなざしが自分を捉えている。
胸の奥がざわつき、心臓が跳ねる。冷たいものが背筋を伝い、手のひらがじっとりと湿る。
(本当に、理人を追いかけて……?)
菜々美がゆっくりと立ち上がる。
途端、背筋にぞくりとした危機感が走り、体が硬直した。
(ここにいるのは、まずい)
直感に従い、梨乃は書類を抱えたままできるだけ目立たないようにその場を離れた。
足音が周囲のざわめきに紛れる中、背後で視線が自分を追う感覚が、さらに心拍を早めていく。
総合受付を離れ、急ぎ足で医局へと戻る。胸の奥がまだざわつき、視界の片隅には菜々美の姿がちらつく。
どれだけ呼吸を整えようとしても、心臓の高鳴りは簡単には落ち着かなかった。
無意識にスマートフォンを手に取る。理人に言わなきゃ──そんな思いが頭をよぎる。しかし指先が震えて、画面に文字を打ち込むことができない。
「……あっ……」
小さな呟きとともに、スマホは手から滑り落ち、床にカツンと音を立てて落ちる。
思わず息を呑み、手を伸ばして拾い上げる。画面に映る理人の名前を見るだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「っ……」
震える手でスマホを握りしめ、梨乃はしばらく俯いたまま動けずにいた。恐怖と混乱が入り混じり、理性よりも感情が先に立ってしまう。
(……どうしよう……)
視界に残る書類やモニターの光さえ、現実感を失わせる。頭の中では菜々美の悪意と敵意に満ちた視線がぐるぐると回り、初めて向けられる完全な害意に、心がざわついた。
震えをなんとか抑えながら、梨乃はスマホを握り直す。指先に残る冷たさが、今日の出来事の重さを改めて知らせていた。