治療不可能な恋をした
「さて……」
短く呟いて、梨乃はペンを胸ポケットに挟んだ。
ナースステーションから少し離れたベンチスペースに立ち寄り、ひと息つくようにコーヒーをひと口。
舌先にわずかな苦味を感じながら、今日の予定を脳内で再確認する。
──10時から、術前評価。
時間まではまだ余裕があるが、初めての外科医との顔合わせとなれば、準備に越したことはない。そう思い、少し早めに評価室へ向かうことにした。
飲み終えたカップをゴミ箱に捨ててカルテ端末を持ち直し、白衣の裾を払って歩き出す。
評価室は、病棟の奥まった一角にある診察室を兼ねた個室。小児患者との対話や身体診察に配慮した、やや柔らかい雰囲気のスペースだ。
ドアの前に着き、軽くノックをしてからドアを開ける。
「失礼します、小児科の仁科です」
そう言って室内に足を踏み入れたとき、視界の奥に見慣れない背中があった。
白衣の肩にかけられた聴診器。黒髪は後ろでやや無造作に流され、立ったままカルテに目を落としている。
「お疲れさまです。ああ──」
その人物がふと振り返り、こちらを見る。
瞬間、梨乃の足がほんのわずかに止まった。
「やっぱりお前だったか、仁科」
笑みを浮かべてそう言ったのは──よく知った顔だった。
かつての大学の同期。
そして昔ただ一度だけ、体の関係を持った相手。
「……逢坂、くん……」
思わず名前を口にしたのは、自分でも無意識だった。
理人は軽く眉を上げて「久しぶり」と相変わらずの調子で答える。その声も、目の奥の温度も、あの頃となにも変わっていなかった。
梨乃はほんのわずかに喉の奥を鳴らし、視線を逸らすように手帳を開く。
──何もなかったように振る舞う。抑えきれない動揺をひた隠しにしながら、梨乃は昔の記憶を思い出す。