最難関攻略キャラ、愛しのルカ様は今宵私の手のひらで踊る
「……ま、またバッドエンドぉぉぉぉぉぉ⁉」
 夜のワンルームに悲鳴が木霊した。カップ麺の湯気がまだ上がる机の上には、乙女ゲームの画面。そこに映る銀髪の青年が冷たく私を見下ろしていた。
『俺は……君を信じるほど愚かではない』
……はーい、出ました。毎度おなじみ冷酷ルート。なんで、なんでなのぉぉぉ⁉
 選択肢、アイテム、全パラメータ完璧。これ以上何ができるのか、いやもう隠しコマン
ドでもない限り説明ができない。そのレベルまでやりこんで常にバッドエンド。もう心が折れてしまいそうだった。
「なんでなの、ルカ様ぁぁぁ!」
 私は床に崩れ落ちた。私、相川トウコはもう二十六歳。俗にいうアラサーゾーンへと足を踏み入れている。そして彼氏いない歴=年齢。会社では地味でおとなしい、いわゆる喪女。唯一の生きがいが、ゲーム。お金と時間をことごとく吸い取られてきた。その中でもどハマりしているのが――恋愛シュミレーションゲーム『私の成り上がりラブ〜あなたはどのイケメンに恋する?〜』である。通称ナリコイ。貧しい村娘アイリスが、様々なイケメン(金持ち、たまに王子)たちとの出会いを通じて成長し、恋を掴む王道乙女ゲーム。けれど中でも私の推し、ルカ=フォン=アルティアは一筋縄ではいかない。彼は王子でありながら、身分を隠して庶民の暮らしを体験している。クールで冷淡、でもふとした瞬間に見せる優しさが刺さる。ファンの間では「史上最難関攻略キャラ」「バッド率の悪魔」と呼ばれる伝説。私は百時間を超えるプレイの末、ギブン、ノエル、リアム、その他の王子たちは全員クリア。だが、ルカ様だけは最後の最後で必ず私を拒むのだ。
『俺は……信じない。愛など嘘だから』
 ……ぐっ。なんだよ! そんなこと言われたらもっと好きになるじゃん!
「あーあ、気分転換しよっと」
 ため息をつきながら、私はパジャマ姿で立ち上がった。そしてその時スマホが鳴った。恐る恐る手を伸ばすと、画面は冷酷に母からの着信を告げている。……うわ、嫌な予感。
 仕方がなくスマホを耳にあてると案の定――。
「もしも――」
「トウコ、明日ねもちろん空いてるわよね? さっきお見合いの話をいただいたのよ。佐伯壮真さんって人で、とても誠実そうなイケメンよ♡」
「……は?」
「ちょっといきなりで、すこーしだけ申し訳ないとは思うんだけど……あんた、いい加減ゲームばっかりやめなさい! 二次元の男は結婚してくれないのよ? それより今すぐ美容院やらネイルやら、行けるものは全部行っときなさーい!」
 ……はい、現実のラスボス登場。まあ、時々このままでいいのかなって思うけどさぁ。
 急に言われたところで駆け込み美容なんてできる体力も、そこに使うお金もない。なんならこの歳になると、このままの私を愛してくれる方の方がいいのではと思い始める。私はカップラーメンを一気にすすると何度目かのルカ様攻略に取り掛かった。
 翌日、私の顔面はまさか今日がお見合いだとは思えないほど深いクマに侵食されていた。さすがにまずいと夜のお見合いに合わせて必死のスキンケアを行う。そしてメイク歴六年を詰め込んで、ベースを綺麗に仕込む。受けがよさそうな上品なアイボリーのワンピースに体をねじ込む。
「……太った? もしかしてカップラーメンで浮腫んだ?」
 ブツブツ呟いたところで何もならないことを自覚している。勝負の時間は刻一刻と近づいていたようで、私は玄関のピンポンと共に母の車に押し込まれた。
「ほらやっぱりね、ネイルも美容院も行ってないと思ったわ。その顔……あんたまさか朝方までゲームやってたんじゃないでしょうね?」
「い、いや昨日はそんなに遅くまでやってないし! 普段より三十分ぐらい早く寝たぐらいよ(深夜二時就寝)」
 そんな戯言を言っている間に、母の車は高そうなホテルの前に停まった。暗がりの中で、異様なくらい光り輝いている。その輝きに怖気づいていると、半ば無理やり追い出される形で車から降ろされた。
「え、お母さん来ないの?」
「今日はあんた達二人で水入らずって決まってんの。終わったら連絡してくれたらいいから。終わったらね? まあ、ホテルに泊まるってなっても連絡してね♪」
「は、はぁ⁉ それはぜっっったいにないから! すぐに向かいに来てよね!」
 ホテルに入ってすぐ、その相手というのはすぐにわかった。ラウンジで待っていたのはスーツ姿の青年。――外見は悪くないというより、むしろかなりいい。
「相川トウコさんですか? 俺、佐伯壮真です。今日はよろしくお願いします」
「あ、佐伯さん……相川です……。よ、よろしくお願いします」
「そんな緊張しなくていいですよー。壮真って呼んでください」
 そして彼は腰に手を回し……ナンデテハソコニアルノカイ? 喪女でもわかる。コイツ手慣れてやがる! 元、いや現役のヤリ〇ンな気がするぞ!
 挨拶もそこそこに私はレストランへと案内された。普段の節約生活とは打って変わって、華やかな料理たち。とにかく長い料理名。やたらと大きな器に綺麗に盛り付けられた品々。私はその男を差し置いて、すっかり料理に魅了されていた。
「ところで、トウコは普段何してるの? 趣味とかないの?」
 ……トウコ? 誰がお見合いで初手から呼び捨てするの? 慣れすぎでバグってる!
 まだデザートも来ていない、メインディッシュのタイミングでのこの質問。私はカトラリーを手に少し考え込んだ。母はきっとこのお見合いで成就させたいのだろう。だが私としては、二十六年の経験上この男はダメだと思う。一応練習してきた、家庭的アピールをかますか。はたまた、正直に乙女ゲームばかりやっている現実逃避アラサーだとアピールするのか。私は歯垢ののち、小さくため息をついた。
「私の趣味はゲームです。休みの日になると結構遅くまでやっちゃうんですよねー」
 ハハっと小さく笑う。乙女ゲームと言わなかったのは、さすがにセッティングしてくれた母の顔が浮かんでしまったからだ。
「……へ、趣味がゲーム? ハハハハハ! あぁ、ごめんびっくりしちゃって。でもさまだそんなことやってるの? オタク女子って結婚厳しいよね。ごめんけど、俺もちょっと無理かも」
 大爆笑をかます男を前に私は微笑んだ。それも限界突破の笑顔で。そして履きなれないピンヒールでテーブルクロス下、男の脛に蹴りを入れる。
「いっっった。は、おま……何してんの?」
「すみませーん、デザートがまだですが今日はこれで。推しが呼んでるので帰りますね! あなたとはご縁がなかったようなので。……次はオタクじゃない女性と出会えるといいですねっ!」
「えっ? おい、待てよ」
 私は制止を振り切ってカツンとヒールを鳴らして走り出した。ホテルを飛び出し、夜の街を駆け抜けながら涙が滲む。そして震える手でスマートフォンに手を伸ばした。今迎えを呼んだら母はどう反応するのか。こんなに早く帰ってきて、と怒るのか。まあそれでもいい。なぜなら私には一刻も早く帰らなければならない理由がある。
「……今すぐ、ルカ様に会いたい……」
 そう呟いた瞬間、眩しいライトが――キィィィィーーーー!
「うそ、トラック⁉ ちょ、待っ……!」
 そのタイヤが思い切り音を上げる。その瞬間、私はこちら側に突っ込んできたトラックによって宙に跳ね飛ばされていた。直後、地面に叩きつけられる凄まじい衝撃が全身に稲妻のように走る。最後に視界に入ってきたのは、目の前に転がった私のスマートフォンだった。だがその画面はもうバキバキに割れていた。そして鉄の味が喉奥に広がる。……まだルカ様を攻略できていないのに。最後にあんなわけわかんない男とお見合いして終わりかぁ。ルカ様みたいな男だったらちゃんとお見合いしたのに……。

 ***

「……んん?」
 草の匂いがした。まぶしい光が指す。雲ひとつない青い空。目を開けると私は野原に倒れていた。さっきまでお見合いの席で“性悪男”に笑われていた。『君みたいな子、結婚に向いてないよ』――トラックのクラクションが響いた。思い出すだけで、胸が苦しくなる。そして今、私の手元にスマートフォンはない。このどこかも分からない場所に私は身一つで来てしまったらしい。風が吹き、サワサワと音を立てて草木が揺れた。
「おい、大丈夫か⁉」
 声の方を見上げると、金髪碧眼の青年が私を抱きかかえていた。顔が近く息がかか
るほど――にしてもこのイケメン具合。まだ目が開ききっていない私の顔を覗き込むのは二次元レベルの爆イケメンズだった。……ん、二次元レベルというかなんか見たことある気がするぞ。って、この人⁉
「え、ギブン様……?」
「なっ⁉ なぜ俺の名を知っているのだ⁉」
 ……待って。待って待って。これ……ナリコイの最初のイベントじゃない? 倒れてる主人公をギブン様が助けるあの名物シーンだよ‼ え、もしかして。私ってナリコイの世界に転生してる⁉
「はぁっ……はぁっ……夢じゃない、よね……?」
 私は思わず過呼吸になりそうになる所を必死に抑えた。頬をつねってみると、確かに痛い。目の前には何百回も見たゲームの町並み。城壁、露店、市場。NPCだった人たちが普
通に生活している。ギブン様は優しく微笑んで言った。
「君、名前は?」
「えっと……トウコ。相川トウコです」
「トウコか。なんだか変わった名だな」
 ……あ、やばい。本来のヒロインはアイリスなのに、私が入れ替わっちゃった⁉ つまり私はトウコ=アイリスver.でこの世界のルート開始状態ってこと⁉
「よし……ギブン様、ちょっと聞いてもいいですか!」
「なんだ?」
「ルカ=フォン=アルティアって人、どこにいます?」
「……ルカ? あいつなら、数日前に城下の市場へ視察に行ったと聞いたが。そもそもなぜ、君がルカの名を?」
 ビビッと電撃が走った。抱きかかえてもらうというスペシャルイベントをすっ飛ばす罪悪感は多少ある。それでもギブン様の腕からするりと抜け出した。
「私行きます、行かせてくださいっ!」
「待て待て! 怪我しているだろう!」
 ギブン様の声を振り切って、私は走り出した。そして走り出してから気が付いた。確かに怪我をしている。右足首に血のにじむ跡が見える。それに痛みも多少ある。それでも立ち止まることなんてできなかった。推しがそこにいるなら行くしかない。しかも夢半ばで終わってしまった、ルカ様攻略がかかっているとなれば。――だが問題はこの世界に移動手段が馬しかないこと。ゲーム中も面倒くさいなと思っていたところが、まさか現実で起こるとは。しかも馬なんて乗ったことない。けれどギブン様の厩舎を見つけた瞬間、ひらめいた。
「チャリ……ないかな」
 そう呟く私の後ろ、ギブン様は心配そうについてきていた。本当ならば、チョロい私はここで惚れてしまうだろうが。今はルカ様という最難関攻略対象者がいる手前、恋に落ちている場合ではない。
「……チャリ?」
「二輪で走る乗り物! 自転車的な!」
 何のことか見当もつかないといった表情で、ギブン様は腰に手を当てていた。私はそんな彼を放って勝手に町中を散策し、ついでに厩舎を物色した。そして、その数分後。なぜか見つけた古びた荷車の車輪と木材を組み合わせ、私は自作の“チャリもどき”を完成させていた。
「トウコやめるんだ、君は足を怪我しているというのに。それは危険だ!」
「だいじょーぶです! 私は推し活のためなら死ねるタイプですから!」
 ギブン様の制止を無視し、私は力任せにペダルを踏み込んだ。きしむ音が聞こえ、ぎこちないが進む。……このまま進むぞっ!
「ルカ様あああああ!! どこですかあああああ!!」
 村人たちが逃げ惑う中、私は全力疾走。坂を下る勢いで風が髪をはためかせる。途中パン屋の店先のバゲットを避け、井戸を飛び越え、馬車の間をすり抜けて――。
「いたぁぁぁぁぁっっ!」
 遠くに銀の髪がちらりと見えた。その背中、間違いない。あの姿勢、あの歩き方。もう何度見たことか。そして何度フラれたことか。涙交じりに私はペダルを強く踏みしめた。
「ルカ様ああああああああ‼」
 叫びながら突っ込んだ瞬間、車輪が石に引っかかった。
「うわあああっ!!」
 ――ドシャァァァン! けたたましい音を立て、自作のチャリはバラバラに散った。そして私は何か柔らかいものの上に倒れていた。その感覚を確かめながら、目を開けると真上には見慣れた無表情の顔。その銀髪に氷のような瞳。
「……貴様、誰だ」
 心臓が跳ねた。……わぁ、わわわ。ルカ様、ルカ様だっ! 本物だ……!
「っ、ルカ様あああああ!」
 思わず抱きつく。彼はピクリとも動かず、呆然と私を見下ろした。
「おまえ……何者だ。不敬というか、もはや変態だぞ」
「……最初に言っておきますね。私はあなたの未来の恋人です!」
「……は?」
 その瞬間、後ろからギブン様が走ってきた。
「ルカ! すまない、この娘が!」
「知り合いか?」
「いや、倒れていたところを助けただけで……」
 冷たい視線。それでも私はもう泣きそうなほど幸せだった。だって、ようやく会えたんだ。何百時間も追いかけ続けた推しに。しかも現実で触れられる距離に。
「……ふん。愚かな女だな」
 ルカ様はそう言い残し、背を向けた。でも私は知っている。その言葉の奥に、わずかな優しさフラグが立っていることを。ゲームで何百回もフラれたからこそ分かるのだ。この
始まりは全く正規ルートではない。だが、ルカ様攻略ルートは私の手によって既にスタートの火蓋が切られていた。
「ふふ……今宵こそ、あなたは私の手のひらで踊るのよルカ様!」
 風が吹き抜ける。遠く、鐘の音が鳴り響いた。――乙女ゲーム史上最難関攻略キャラ、ルカ様。貴方を落とせるのは、百時間かけてフラれ続けたこの私だけのはず。この恋、もうバッドエンドにはさせない。――そう決意した瞬間、私の視界はぐにゃりと歪んでいった。

「……熱は下がったようだな」
 目を開けると、そこにはギブン様の顔。柔らかい金髪が逆光に光っていて、いっそこのまま恋愛フラグが立つのでは錯覚するほど優しい表情だった。
「あれ、私いつの間に寝てて」
「寝たのではなく気絶したというか、倒れたというか。それにしてもまったく……あの無茶な乗り物はなんだったんだ」
「チャリです!」
「……ちゃり?」
「愛の翼です!」
「理解不能だ」
 冷たいタオルが額に当たる。そうだ、貧血か何だか分からないがいきなり視界がゆがんだんだった。そしてここはギブン様の私邸らしい。
「トウコ、痛むところはないか?」
「……心が……推しの冷たい言葉で抉られたところが……」
「医者を呼ぶか⁉」
「ちがう! そういう痛みじゃないんです!」
 ギブン様が困惑顔で眉を寄せた。
「君、本当にあのルカという男が好きなのか?」
「好きとかじゃないです! 信仰です!」
「……余計に危険な香りがするな」
 苦笑しつつも、彼は優しく笑った。
「だが、あの男は人を寄せつけない。近づけば傷つくだけだぞ」
「知ってます。でも、放っておけないんです」
 そのとき胸がきゅっとした。そう、それはゲームをしている時もそうだった。冷たいセリフの裏に孤独が見えた気がしたのだ。ルカ様は拒絶する人じゃなく、拒絶せざるを得なかった人。――その心の氷を、私が溶かしたい。
「ギブン様、私もう一度彼に会いたいです」
「……そう思うなら、気をつけろ」
「はいっ!」
 翌朝、私は屋敷を抜け出した。ギブン様には申し訳ないが、ルカ様に一刻も早く会わなければ。(使命感)ルカ様は王都の市場をよく巡回する。それを知っているのは、何百時間もゲームをやってきたナリコイのガチオタ特権。人で賑わう市場には香ばしいパンの匂い、果物の香りが漂っている。そして子どもたちが笑いながら走り回っている。
「懐かしい……このイベントBGM、まだ耳に残ってる気がする」
 あたりを見回すと、人混みの向こうに黒いフードの青年が立っていた。
「ビ、ビンゴ! さすが私!」
 彼――ルカ様は露店の奥で手を組み、周囲を見回していた。民の暮らしを観察している。そう、これは庶民視察イベント。私は心臓が爆発しそうだった。声をかけたい。でもゲームではここで話しかけるとバッドエンドフラグ。ここから冷酷ルカ様ルートへひた走ることになってしまう。私は仕方がなく、物陰に隠れて彼を見守ることにした。
「落ち着け私……今はただ観察するの……。推しの生息環境を見守るの……できるわよね?」
 その時、小さな男の子が走ってきてそのまま転んだ。パンを落とし、泣き出す。周りの大人たちはちらっと見ただけで通り過ぎる。私が駆け寄ろうとしたその時、ルカ様が静かに視線を動かした。そしてその足が子どもの方へ向かう。彼は屈み込み、泥だらけのパンを拾い上げた。上着の裾で拭き、子どもに差し出す。
「……泣くな。一応これは渡しておくが、パンは新しいものを買ってくる。だから涙を拭いてくれ」
 優しい声。冷たい仮面の奥から光がこぼれた。その笑顔につられて子どもが笑う。ルカ様の唇がほんの少しだけ動いた。――笑った。あのルカ様が笑った。その瞬間、世界がスローモーションになった。脳内で鐘が鳴りエフェクトが光る。そして私は涙を流していた。……あぁぁぁ、あまりにも尊いっ。あの笑顔を守りたいっ。
 私の頬に涙が伝う、そして鼻からも……鼻からも?
「ッっぶはああああっっっ!」
 私は盛大に鼻血を噴き出した。周りの人がざわめく。
「お嬢さん⁉」
「誰か布を!」
 私は慌ててハンカチを押さえながら叫んだ。
「これだから推し活はやめられねぇんだよぉぉぉおお!」
「……また貴様か」
 ルカ様がこちらを見ていた。凍りつく私。いやむしろ溶ける。
「ル、ルカ様ぁ……その、パン拭いてた手が……尊すぎて……」
「……怪我でもしたのか?」
「心にです!」
「……何を言っているのだ。頭でも打ったか?」
 ルカ様はため息をつき、自分の持っていた白い布を差し出した。
「これを使え。顔が赤い、血で」
「⁉⁉⁉」
私の脳内に花火が盛大に打ちあがった。……推しからハンカチ⁉ 伝説級イベント発生!
「る、ルカ様が……私に……? やば……これ、公式ルート外イベントだよ? 私だけの攻略ルートってこと⁉」
「何をぶつぶつ言っている。早く止血しろ」
「はいっっ!」
 そのあと、彼は何も言わず立ち去った。私は鼻を抑えながら、ルカ様が子供と手をつないでパン屋へ入っていくところまで見届けた。風だけが残り白い布の匂いが鼻をくすぐる。ほんのり紅茶と革の香り。
「う、尊い……。推しの香りがする……。これ密閉して保存したいレベル……ついでに一緒にお墓に入れてほしいぃ」
 背後からギブン様の声が聞こえる。
「こんな所に居たのかトウコ。って、また出血したのか⁉ しかも次は鼻から」
「ギブン様……それは推しが優しいからです!」
「……今度こそ医者を呼ぶ」
「違うのっ!」
 ギブン様が深くため息をついた。
「まったく……あいつは冷たいくせに、そういうところだけ抜け目がない」
「ね、ね! 分かります、そうなんです。ギブン様解像度高いですね! ツンと見せかけて実は優しい! そこが最高なんです!」
「君のそれは本気で恋してる顔だな」
「えっ……」
 言葉が詰まった。笑いながら話していたのに、胸の奥がドクンと鳴る。
「恋、かぁ……」
 現実では、一度もそんなこと言われたことがなかった。誰かに“恋してる顔”だなんて。そもそも私が恋していいのか、それが分からなかったから。ギブン様が続ける。
「彼は昔、ある事件で人を救えなかった。それ以来、誰にも心を開かない」
「……そんなの寂しい」
「寂しさを知っている分、あいつは優しい。だが、それを見抜ける人間は少ない」
 私はゆっくりと空を見上げた。
「……私、見抜きましたけども」
 ギブン様が小さく笑った。
「なら、頑張れ。だがこれ以上傷つくなよ。辛いだけだ」
「はい。……でも、たぶん傷ついてもいいです。もうあの人が好きだから。こんなの今まであった辛いことと比べたら……ただの幸せですよ」
 ギブン様は優しく大きな手で私の頭を撫でた。胸が熱くなった。鼻血よりもずっと深い場所がじんわりと疼いた。
 その夜、私はルカ様が落とした白い布を抱いて月を見上げた。頬を風がかすめていく。金の鈴が鳴るような夜の音。ルカ様のあの声がまだ耳に残っている。
『……泣くな。パンは新しいものを買ってくる。だから涙を拭いてくれ』
 たったそれだけの言葉なのに。あの優しさルカ様を見てしまったら、もうこの世界をただの“ゲーム”だなんて思えなかった。
「ねえ、ルカ様……あなた本当は優しいんでしょ。私、もう知ってるんだから」
誰もいない夜に呟いた。
「だったら、今度こそ私が……あなたの心を攻略してみせる。この世界で」
 月が静かに輝く。涙が頬を伝う。その瞬間、確かに思った。これはもう推し活なんかじゃなく、私の本気の恋だと。
 翌朝、目を覚ますと外からざわめきが聞こえた。窓の外では人だかりができている。どうやら街の広場で募金イベントが行われているらしい。
「……あれ?」
 人混みの中心、またしても銀髪。あの背筋の伸び方、立ち姿、そして――その冷ややかさ。ルカ様だった。でも今日は様子が違った。子どもたちと一緒に荷物を運んでいる。汗に濡れた髪を額でかき上げ、笑顔こそ見せないけれど誰よりも丁寧に動いている。
「……また助けてる。」
 胸が温かくなった。けれど――その時。
「盗人だっ!」
 どこからともなく叫び声が聞こえる。様子を伺うと、群衆の中から少年が逃げ出した。その手には募金箱。人々がざわめく中、ルカ様が疾風のように動いた。たった一歩。その瞬間にはもう少年の前に立ちはだかっていた。
「……返せ」
 低く鋭い声。少年は震え、募金箱を落とした。ルカ様は何も言わずそれを拾い上げると彼の肩に手を置いた。
「……誰も、最初から盗みたくて盗むわけじゃない」
「うぅっ……」
「君は腹が減っていたんだろう。ほら、食え」
 そう言って自分のパンを差し出した。まわりの人々が息を呑んだ。その瞬間、私の世界が止まった。……ルカ様、そんな……あなた、ゲームではこんなセリフ一回も言わなかったのに。
 胸が締め付けられた。これはルカ様が見せたことのない未公開ルートだ。おそらくここは既に私の知ってるゲームじゃない。
「……ルカ様、やっぱり……あなたは優しい人ね」
 気が付けばこの世界に来てから何度目かの涙が出ていた。
 その夜、私はギブン様に呼び出された。王都郊外の丘は夜風が冷たかった。
「ルカのことを、少し話しておこう」
「ルカ様のことを……?」
 ギブンが真剣な顔でうなずいた。にもかかわらず、彼はその後少し考え込んだ。
「いや……これはまだ秘密にしておこう。」
「……え」
「お前の実力がみてみたい。そこまであの男に固執するなら、当然本人から秘密を聞き出すことだって容易いだろ? ――本当の恋人候補ならな」
「――確かに、恋のスパイスはたくさんあればあるほどいいですからね。今に見ていてください、私がものの見事にルカ様を恋の沼に沈める所を!」
「なんか、こわいな」
 私たちは笑いあった。ゲームでは民間視察をよくする変わり者の王子だったルカ様。ただし、その冷酷さの理由などは明かされていない。……ということは、私はゲームの主人公アイリスを越えられるかもしれないってことよね。俄然やる気が出てきた!
 ギブン様が笑いながら続けた。
「君を見てるとあいつは少しずつ変わってる気がする」
「え?」
「いつも無関心な彼が、君を見つけたときだけ……視線が止まるんだ」
 思わず頬が熱くなる。
「そ、そんな、気のせいです!」
「どうかな。……でも、気をつけろ」
「なにか、あるんですね?」
「彼はその立場上、危ない目にあることもある。過去に面倒くさい輩に目をつけられたことも、反乱がおきたこともある。つまりそんなルカに近寄るということは、トウコの命も保証はされないということだ」
 胸がざわついた。“失敗すると死ぬルート”――それはゲームの記憶でもある。
「私は別にいいのです。それよりも、ルカ様が死ぬ……? そんなの絶対イヤ!」
 私はその場を飛び出した。夜の街を走る。風が涙を乾かしていく。
「おい、何で今出ていくんだ!」
「待って、ルカ様……今度こそ、私があなたを救う番なんです!」
 声が震える。何度もバッドエンドを見てきた。でも今回は違う。だって――この世界のルカ様は確かにここに生きている。泣いて、笑って、息をしてる。そして今、確かに私の中にも恋がある。
 森の奥、篝火の明かりが揺れていた。ルカ様が一人剣を研いでいた。
「ルカ様っ!」
「……またお前か」
「危ないことに首突っ込んでないですか⁉」
「何を言っている。……将来、王になるものとして多少はあるだろう」
 その声は冷たかったけれど、どこか震えていた。
「そんな王としての務めなんて、どうでもいいじゃないですか! 生きてくださいよ!」
「……いきなり何を言っている。王族に生まれたものの苦労など、お前は何も知らない」
「確かに知りません」
 私は一歩踏み出した。
「今はまだ知らないことも、今後知っていきたいんです。もちろん一生かかっても分からないこともあるかもしれません。それもあなたのことをもっと深く理解したい。たとえどんな秘密があっても、私はすべて受け入れる覚悟ができています」
 ルカ様の瞳が大きく揺れた。
「……どうしてそこまで関わる」
「だって、好きだからです!」
 夜風が止まった。
「あなたの優しさを知ってしまったら、もう放っておけない。私はあなたを攻略したいんです。でもそれは、ゲームみたいに好感度のためじゃない。本気であなたを笑わせたいんです!」
 沈黙が流れた。やがて彼の肩がわずかに震えた。それは笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「……お前という女はつくづく理解ができない」
「それ、何回目のセリフですか!」
「数えているのか」
「もちろんです! 私、あなたのセリフ全部暗記してますから!」
 小さく息がもれた。それはほんの一瞬。でも確かに“笑み”だった。
「……やれやれ」
ルカ様が剣を収めた。
「今夜は早く帰れ。夜は体が冷える」
「え、帰れって……」
「見張りをするから、まだ帰らない。お前は帰れ」
「じゃあ、私も見張ります!」
「……何のためにだ」
「あなたを見守るためです!」
「……変な女だな」
 けれどその声はもう冷たくなかった。
 いつの間にか夜が明けていた。森に柔らかな朝日が差し込む。私は草の上で眠ってしまっていた。肩に何か温かいものがかかっている。ゆっくりと目を開けると、それはルカ様の上着だった。
「……ルカ様?」
 姿はない。けれど近くの木の幹には鍛錬をしたのであろう剣の跡。そして私の顔の隣には白い花が一輪、添えられていた。風に揺れる花弁。その中央には、小さく折られた紙があった。
『お前は泣くほど弱くない――』
 文字が滲んでいた。私はその場に膝をつく。涙が止まらない。それは悲しみの涙ではなかった。
「ルカ様……あなたは、やっぱり世界一優しい人です」
 胸に上着を抱きしめると香りがまた蘇る。今度こそ、あなたを笑わせてみせる。どんなに難しいルートでも私は絶対に諦めない。スマホもなくなったこの世界で風が頬を撫でた。もう戻る場所はない。立ち上がった私の頬を朝の光が照らしだした。
「……いつか、ルカ様――あなたを、ただの推しじゃなくて恋人にしてみせます」
 風が頬をなでる。遠くの鐘が鳴る。
「今宵こそ――あなたは私の手のひらで踊るのよ、わが愛しのルカ様」
 空に響くその声は、確かに笑っていた。
 
 私は森を抜け、ギブン様の屋敷へと戻った。手にはルカ様の上着を持って。森で眠った代償に私の服は裾に泥が跳ね、小さな草などが無数についていた。それにもかかわらず、彼は私を見るなり両手で力いっぱい抱きしめた。
「ギブン様、汚れちゃいますよ⁉」
「……そんなことはどうでもいい。トウコ、どこに行っていたのだ! 待てど暮らせど帰ってこないものだから。随分探したぞ」
「すみません! あ、あのぉ。実は森で寝てしまっていて。起きたら朝だったんですよね……」
「なぜだ⁉ なぜ森で寝る⁉」
 私は服を着替えると、用意された温かい紅茶とチーズ、それに丸パンを口にした。そして、ルカ様との昨夜の思い出を洗いざらい説明した。そしてギブン様が大きなため息をつきながら言った。
「まったく……あいつを踊らせた女は、王国史上君が初めてだろうな」
「え、まじですか。光栄ですっ」
「だが――次は、あいつの心を本当に掴めるかどうかだ」
「もちろんです。かなり難しいことは心得ています!」
 私は胸を張った。
「でもそんなことは気になりません。何といったって、この世界の最難関攻略キャラを私は本気で落としに来たんですからね」
 窓から風が入り込み、レースのカーテンを揺らす。ルカ様の上着がふわりと揺れた。まるでもう一度会おうと約束するように。朝の光にルカ様の上着が揺れる。その重さと匂い――紅茶と革とほんの少しの風の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、私は宣言した。
「ギブン様。私、王城に潜ります!」
「……朝の挨拶みたいに言うな。どこに、なぜ、どうやってのうち少なくとも二つ以上は説明してほしい」
「なぜは決まってます、もちろん推しの安全のため。どこは王城にです。最後のどうやっては――」
 私はルカ様の上着を畳み、ぎゅっと抱えなおした。
「メイドです!」
「お、お前が?」
「家事は壊滅的ですが、推し活は精密作業です。推しスケジュールの把握、障害物の除去、突発イベントの即応、全部できます! 大変優秀なメイドになる素質はあるのでないでしょうかっ」
 ギブン様がこめかみを押さえ、深く嘆息した。
「……数少ない手段ではある。王城の採用窓口は幸運なことに明後日だと耳にした。だが最低限、礼法と宮廷語、警備ルートの暗記が必要になる」
「任せてください。徹夜でやります!」
「いや寝ろ。前回も気絶しただろう」
「では……二徹で!」
「悪化させるな」
 結局、私は徹夜半で机に突っ伏し、ギブン様の書斎で目を覚ました。机の上には丁寧に開かれた礼法の基本と宮廷語の発音表、それに――。
「……おにぎり?」
「朝食だ。海苔は黒い紙ではない。食べ物だ」
「知ってます!」
 むしゃむしゃ食べていると、扉がノックされた。入ってきたのは、黒髪で鋭い目をした女性。黒の実用ドレスに銀の飾緒……なんだこのキリッと美人。すんごいタイプなんだけど⁉
「紹介する。王城メイド長の補佐、アデルだ。明日の採用試験の前に最低限の線を作ってもらう」
「ギブン様ぁ! なんて優しいっ、ありがとうございます。ありがとうございます。そして、アデルさんもありがとうございますっ」
「初めまして。……あなたが推し活で死ねるタイプの女、トウコ?」
「ちょっと噂が速すぎません?」
 アデルさんは無駄のない動きで紅茶を置き、私の姿勢を一瞥した。
「まず背筋。天井から糸で引かれていることを意識して」
「はいっ」
「顎は引く、目線は床から三歩先、指先は揃える。歩く時は踵から音を立てず、しゃべるときは息で音を押し出す」
「こ……こう?」
「悪くない。次は王城の“灰階段”の上り下り」
「はい?」
「王城の裏導線だ。灰の粉がつくからそう呼ぶ。慣れていない者は咳き込む」
 私は階段訓練に叩き込まれ、礼法を丸暗記し、深夜には宮廷語の舌の巻き方で舌を攣りそうになった。ちなみに“お可愛いこと”はこの世界の貴族語でも“お可愛いこと”だった。世界の真理に思わずテンションが上がった。
「よし。最低限は形になった。あとは……心の強さだけ」
「そこだけは無限です。推しで鍛えさせられました。化け物レベルのメンタルだけ評価してほしいです」
 アデルさんがわずかに笑った。氷がかすかに溶けるみたいな笑みだった。
「そこに依存しすぎるな。推しに見せる背中は自分で立たせてなんぼだからな」
 胸の奥で何かがカシャンと鳴った。スイッチが入る音。私はこくりと頷いた。
 ――翌日、王城の採用窓口前には列ができていた。侍女志願者、護衛志願者、料理補助、様々な人が緊張の面持ちで立っている。私の両隣は可愛らしい女の子、そして背筋の伸びたいかにも配膳係を志望していそうな青年だった。
「あの、緊張してますか?」
 右隣にいた小麦色の肌に赤毛の女の子に声をかける。彼女の丸い目がぱちぱちと瞬いた。
「してる……。私、リナ。あなたは?」
「トウコ。よろしくね」
「うん! あ、あのね……もし二人とも受かったら、友達に……」
「もちろん!」
 彼女の笑顔は太陽だった。こういう子を放っておくわけがないと、乙女ゲーム脳がひそかに警鐘を鳴らす。油断は禁物。推しも命も守るのだ。審査室に通されると、机の向こうには五人の審査官。中央には――アデルさん……やば、先生本人が審査するんかーい!
「次、トウコ」
 私は一歩前に進む。背筋、顎、目線、指先、呼吸――全部昨日のチェック通りに。
「志望動機を」
 ……推し活は一旦封印……! トウコ、オタクはこういうところの底力が半端ないって見せつけるのよ!
「人々の暮らしを支える“背骨”として働きたいからです。誰かが笑うための段取りを整える仕事が好きです」
 審査官が顔を見合わせる。アデルさんの目がわずかに柔らいだ。
「特技は?」
「道を覚えるのが速いです。あと、壊れたものをつぎはぎで動かすのが得意です」
「壊れたもの?」
「“チャリ”という乗り物を色々なものを駆使して」
「そこまででいい」
 筆記、歩行、礼法、物運び、危機対応――最後の“危機対応”では、落ちかけた盆を肘で跳ね上げ、回転させて受け直す荒技が出てしまい、審査官が全員“おおっ”と声をあげていた。あれは推しのサイン会で積まれたピサの斜塔のようなCDタワーを救ったあの日の賜物である。
「合格」
 アデルさんがあっさりと言った。私は思わず小さくガッツポーズを作る。リナも別室で叫び声を上げていた。こうして私は正式にルカ様の近くへ――現実なら犯罪級のストーカーを始めることに成功した。
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