蒼へ沈む
「大学はどうだった? 東京の方に行ったんだっけ」
海風に目を細めながら、彼がふと、何でもないことのように口を開いた。
「そうです。……医学部の勉強は大変でしたけど……民族音楽の研究サークルに所属して、長期休暇は、よく海外を回ったりしてました」
「いいな。海外か」
彼の横顔に、嫉妬や卑屈な色は一切ない。ただ純粋に、遠い異国を眩しがるような穏やかな響きだった。
「……どこに行ったんだ?」
「うーん……普通に、ヨーロッパとか巡ったりしましたし、アラスカで、オーロラを見たり……」
ぽつり、ぽつりと自分の過去を吐き出しながら、私はひどく居心地の悪さを感じていた。自分の口から語られる華やかな経験が、まるで彼の人生から不当に奪い取った『盗品』であるかのように思えてならなかったからだ。
「そうだ。……サモアとかもいきました。燈矢さんが、昔行ってみたいって……言ってたから」
その国名を口にした瞬間、隣を歩いていた彼の足音が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
『サモアの海って、世界で一番深い青色をしてるらしいんだ。いつか絶対に行ってみたい』
18歳の彼が、図書館の図鑑を開きながら目を輝かせて語っていた、あの日の声が耳の奥に蘇る。
「……そっか。綺麗だったか?」
「うん……すごく。底が見えないくらい、透き通った青で……」
優しく微笑む彼から逃げるように、私は俯いて唇を噛み締めた。
――逆だったんじゃないか。
ふと、そんな残酷な真実が脳裏をよぎる。
本来なら、外の世界へ力強く飛び出していくのは、見えない羽根と丈夫な脚を持っていたはずの彼だった。
そして私は、この小さな汐鳴の町という檻に一人で縛り付けられながら、彼が時折届けてくれる、異国の地の果てしなく広い海の話を、ただひたすらに楽しみに待つ。
それが、私たちが思い描いていた、本来あるべき正しい未来の姿だったのだ。
私が都会で自由を謳歌し、彼が夢見たサモアの海を見ている間、彼はこの寂れた町で、痛む左脚を引きずりながらどんな絶望の夜を過ごしていたのだろう。
「……夏菜?」
立ち止まったまま俯く私を心配して、彼が顔を覗き込んでくる。
私は、泣き出しそうになるのを必死に堪えながら、ただ首を横に振ることしかできなかった。