蒼へ沈む
――もし、あの夏の夜。
サメに左脚を食いちぎられることもなく、五体満足な身体のまま、親父の背中を追って漁師になっていたら。俺とあいつの未来は、少しは違った形になっていたのだろうか。
いや、どうだろうな。と、心の中で自嘲する。
仮に俺が自分の丈夫な脚で船に乗り、一人前の漁師になったとしても。町で唯一の診療所の跡取り娘である彼女と、ただの漁師の倅である俺との間にある『絶対的な身分差』が消えるわけじゃない。
あいつの親父さんは間違いなく俺たちを引き裂こうとしただろうし、町中の人間が「不釣り合いだ」と噂しただろう。
俺にとって『漁師として海で成功すること』は、ただのガキの夢じゃなかった。
それは、立派な医者になる彼女の隣に並び立つための、そして、彼女をこの窮屈な町から連れ出してやるための、俺に許されたたった一つの『武器』だった。
もしあのまま海に出て、サモアのグランブルーまで行くようなでかい船の船長にでもなれていたら。
俺は、あいつの親父に頭を下げて、堂々とあいつを迎えに行くことができたのだろうか。
……今となっては、永遠に答えの出ないただの妄想だ。
俺のその『唯一の武器』は、15年前のあの夜、俺の左脚と一緒に暗い海の底へあっけなく沈んで消えた。丸腰の欠陥品になった俺には、もう彼女を守ることも、迎えに行く権利も、何一つ残されていなかった。
いや、あるいは、あの時。
潮風の匂いが染み付いた、薄暗い町立図書館の片隅で。
ただ『同じ海に関する本を開いていた』。本当にそれだけの理由で、窓際で本を読む彼女に俺から声をかけたこと。
それが、俺たちの人生を狂わせた、全ての間違いだったのかもしれない。
『おい、やめとけって。あの子、診療所の跡取り娘だぞ。俺たちとは頭の出来から何から、違いすぎる。……あんまり夢、見るなよ』
連れの悪友が呆れ顔で吐き捨てた、あの残酷で的確な忠告を。
あの時、俺が素直に聞き入れて、身の程をわきまえて彼女から目を逸らしていれば。
そうすれば、彼女に『サモアの海を見たい』なんて叶わない夢を語って、縛り付けることもなかった。
俺が勝手に左脚を失ったことで、彼女の心に、一生消えない泥のような罪悪感を植え付けることもなかった。
初めから、交わるべきじゃなかった。
同じ本を読んでいただけで、同じ世界を生きていけるだなんて、思い上がるべきじゃなかったのだ。
暗い部屋の中。
俺は義足の切断面に残る鈍い痛みを感じながら、15年前、窓際の彼女に無邪気に声をかけてしまったあの日の自分を、ただひたすらに呪い続けていた。