蒼へ沈む
シーグラスの影を見つめていると、ふと朱海さんは何かを思い出したようにポンと手を打った。
「そうだ、燈矢くん。聞いた?」
「……何をですか」
「今日は珍しく、沖の定置網に鯨が引っかかったって、朝から漁港の男どもが大騒ぎしてたの。それで夜、駅前の『潮騒亭』で大漁祝いの宴会だってさ」
潮騒亭。漁港の連中が毎日のように入り浸っている、畳敷きの古くて騒がしい大衆居酒屋だ。
俺も親父が現役だった頃や、脚を失う前の高校生の頃までは、よく連中と一緒にあそこで馬鹿騒ぎをしていた。
「へえ。鯨なんて、この辺りじゃ何年ぶりですかね」
「ねぇ、私も少し顔出すつもりだからさ。燈矢くんも久しぶりにおいでよ」
興味なさそうに相槌を打つ俺に、彼女は意地悪な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「ついでにその、隠してる『想い人』も誘って、私に紹介してよ」
「だから、そんな人いませんって」
「嘘だね。連れてきなよ、絶対楽しいからさ」
しつこく食い下がる朱海さんに、俺は思わず、少しムッとした口調で反論してしまった。
「……あの子は、あんなむさ苦しい漁師連中の飲み会に混ざって楽しめるような、そんな女の子じゃ――」
ハッとして言葉を切った時には、もう遅かった。
やっちまった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。夏菜の育ちの良さや、あの騒がしい居酒屋の空気に戸惑うであろう上品な姿を想像して、無意識のうちに彼女を庇う言葉が口をついて出てしまった。
「……あ」
朱海さんが目を丸くし、それから、獲物を仕留めた猫のようにニヤリと口角を上げた。
「……やっぱり、いるんだね。『女の子』」
「……っ、違います。今の言葉の綾で」
「へぇー。漁師の飲み会には合わない、ね。……お嬢様タイプ? 燈矢くん、そういうのがタイプだったんだ」
完全に退路を断たれ、俺は額に手を当てて深くため息をついた。
朱海さんの言う通りだ。俺は夏菜のことを、初めから俺たちとは違う『お嬢様』だと、誰よりも特別視してしまっている。
「……勘弁してください、朱海さん。これ以上は、本当にノーコメントで」
降参するように両手を上げると、彼女は楽しそうにくすくすと笑った。
けれど、俺の胸の奥には「あいつは俺たちの住む世界(漁師の宴会)には絶対に合わない」と、自分自身の口で残酷な事実を証明してしまったことへの、ひどく苦くて惨めな後味がいつまでも残っていた。