蒼へ沈む

2.3





偶然、往診の帰り道に、彼の店『汐灯』の前を通りかかった時だった。

「――じゃあね燈矢くん。『お嬢様』の彼女によろしく」

カラン、とドアベルが鳴り、店から出てきた女性の明るい声が夕暮れの路地に響いた。

ハッとして足を止めた私の視線の先で。見知らぬその女性に向かって、店のドアから顔を出した燈矢が、困ったように、けれどどこか楽しげに笑っていた。

「……だから、違いますって」

苦笑しながらも、女性に向かってヒラヒラと手を振る彼の横顔。
それを見た瞬間、私の心臓がヒュッと冷たく縮み上がった。

……あんな風に笑うんだ。

私と一緒にいる時は、いつもあんなに痛みを堪えるような、何かを諦めたような顔ばかりしていたのに。あの人の前では、あんなにも屈託のない、18歳の頃と同じような自然な表情で笑うことができるのだ。

『お嬢様』の彼女。
その単語が、呪いのように頭の中で反響する。
私に『良家の娘さん』と残酷な線引きをした彼が。私の知らないどこかで、私ではない誰か別の『お嬢様』と、新しく甘やかな関係を築いているというのだろうか。

ズキリ、と。胸の奥を、今まで感じたことのないような醜くて鋭い嫉妬の刃が切り裂いた。

女性の後ろ姿を見送った燈矢が、ふと視線を横に滑らせ、電柱の影で立ち尽くしている私に気づいた。

その瞬間、彼の顔から先ほどの柔らかい笑みがスッと消え、いつもの『私の知っている、壁を作った燈矢』の顔に戻るのがはっきりと分かった。

「……夏菜。偶然だな。また、往診の帰りか?」

「……ええ」

往診用の重たいカバンを握りしめ、私はどうにか声の震えを隠して微笑みを作った。

……さっきの女性は誰? 『お嬢様』の彼女って、誰のこと?

喉の奥まで出かかったその問い詰めるような言葉は、しかし、絶対に外へ放つことはできなかった。

私には、それを聞く権利なんてない。
彼が脚を無くして夢を絶たれ、一番辛かったはずの時に、私は彼のあの暖かかった手を放した。
私に、彼の隣の席を嫉妬する資格なんて、微塵も残されていない。

私が泥のような自己嫌悪と悲しみに足を取られて俯いていると、不意に、頭上から静かな声が降ってきた。

「……何か、飲んで行くか?」

顔を上げると、少しだけ眉を下げた燈矢が、私を気遣うように見つめていた。

「少し、疲れた顔してるぞ」

その不器用で優しい声色が、今はたまらなく残酷に響いた。



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