蒼へ沈む
「……じゃあ、買う。また後で、一緒にお会計よろしく」
「了解」
掌の上の、夜明けの色をしたシーグラス。
それをそっと棚に戻すと、私は深く息を吸い込んでから、カウンターの定位置に腰を下ろした。
彼が淹れてくれたコーヒーの湯気が、二人の間に漂う少しの緊張感を和らげてくれる。
「……話、していい?」
マグカップを両手で包み込みながら、躊躇いがちに上目遣いで尋ねる私に。
燈矢は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから、いつもの穏やかな店主の顔に戻って小さく頷いた。
「どうぞ。……何か今日は、変わったことでもあった?」
そう促す彼の声は、ひどく優しかった。
本当は、『お嬢様の彼女』について、燈矢に聞きたかった。けれど、私はその言葉をぐっと飲み込み、代わりに、往診の帰りに遭遇した別の出来事を口にした。
「……漁港の方、すごく騒がしかった」
「あぁ……」
私の言葉に、燈矢は合点がいくように小さく笑い、カウンターを布巾で拭きながら答えた。
「鯨が珍しく定置網に引っかかったんだと。……この町の網に鯨がかかるなんて、何年ぶりだろうな」
漁師町ならではの、少し荒っぽくて、けれど血の通った活気のあるニュース。
そんな他愛のない世間話を彼と共有できているこの時間が、たまらなく愛おしかった。
「……鯨……」
ぽつりと、私はその単語を反芻する。
私の脳裏に浮かんでいたのは、巨大な海獣の姿ではなく。あの灯台の上で風に揺れていた、彼が今もシャツの下に隠し持っている『鯨の骨のネックレス』だった。
私が彼に贈った、航海の安全を祈るお守り。私の想いを、彼が今でも手放さずにいてくれているという、たった一つの確かな証。
「気になるか?」
私が黙り込んだのを、珍しい食べ物への好奇心だと勘違いしたのだろう。
燈矢は少しだけ得意げに、かつての『漁師の倅』としての無邪気な顔を覗かせた。
「親父あたりに頼めば、少しぐらいなら分けてくれると思うよ。竜田揚げにしたり、生姜と煮付けたりすると結構美味いんだ、あれ」
それは、彼が引こうとしていた『住む世界の違い』を、彼自身が無意識のうちに忘れてしまっている証拠だった。
私の父が絶対に許さない泥臭い漁師の世界のものを、彼の方から私に与えようとしてくれている。その不器用な優しさが、たまらなく嬉しかった。
気がつけば、私は彼を真っ直ぐに見つめ返し、我儘な条件を呟いていた。
「……燈矢が、料理してくれるなら」
「え……?」
拭いていた彼の手が、ピタリと止まる。
「燈矢が作ってくれるなら、食べてみたい。……だめ、かな?」
上目遣いで尋ねる私を前に、彼は完全に虚を突かれた顔をしていた。