蒼へ沈む
「……っ、ほんと、お前って昔から変なとこで頑固というか……」
数秒の沈黙の後。
観念したように大きな溜息をつきながら、彼が片手でガシガシと頭を掻いた。
その仕草は、昔から彼が私のお願いに折れる時の、まったく変わらない癖だった。彼が引こうとしていた境界線を、私が力技で踏み越えた瞬間だった。
「あー。分かった。今夜な」
少しだけぶっきらぼうに、けれどどこか甘さを孕んだ声で彼が告げる。
「えっ……今夜?」
「なんだよ。お前が食べたいって言ったんだろ。生肉なんだから、鮮度が落ちないうちが一番美味いんだよ」
思いがけない即答に私が目を丸くすると、彼は呆れたように笑い、布巾を畳んでシンクの脇に置いた。
「漁港の親父に連絡して、少し分けてもらうように頼んどく。俺の店の営業が終わった後、準備できたらまた連絡するから」
「……うん。待ってる」
胸の奥で、トクトクと心臓が早鐘を打つのを感じた。
夜。お店が閉まった後。彼が一人で暮らすこの場所で、彼の手料理を食べる。それは、高校生の頃の私たちには絶対に手が届かなかった、あまりにも無防備で親密な『大人の時間』の約束だった。
少し熱くなった頬をごまかすように、私が残りのコーヒーを飲み干そうとした時。
彼がふと、何かを確かめるように少しだけ声を落として尋ねてきた。
「……酒は、飲むか?」
その短く、静かな問いかけに。
私は彼が今、私を『良家の娘さん』や『昔の恋人』としてではなく、一人の『大人の女』として扱ってくれたような気がして、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
アルコールが入れば、もう互いに誤魔化しは効かなくなるかもしれない。それでもいい。いや、むしろ、彼が着込んでいるその分厚い理性の鎧を、少しでも溶かしたかった。
「飲む」
私は彼の目から視線を逸らさず、はっきりと答えた。
「日本酒がいいな」
「……了解」
私の即答に、彼は一瞬だけ小さく息を呑み、それから、観念したような、あるいは彼自身も何かを覚悟したような顔で、短くそう頷いた。
夕暮れの光が落ちていく静かな店内で、交わされた言葉はたったそれだけだった。
けれど、そのたった数文字のやり取りが、これから訪れる夜の温度を、どうしようもないほど熱く、そして引き返せないものへと変えてしまったことだけは確かだった。