蒼へ沈む
2.4
約束通り、店の営業が終わった夜の『汐灯』。
表の看板の明かりが落ち、薄暗い間接照明だけが灯る静かな店内で、彼がキッチンで手際よく竜田揚げの準備を進める音だけが心地よく響いていた。
カウンター越しに、まな板に向かう彼の大きな背中を見つめながら、私は用意してくれた冷酒のお猪口を小さく傾け、ふと気になっていたことを口にした。
「……くじらって……燈矢は、実際に泳いでるのを見たことあるの?」
包丁の音がピタリと止まる。
「テレビとか水族館の映像でしか見たことないから。本当の大きさとか、息遣いとか……私、頭の中で何も想像できない」
私の素直な疑問に、彼は少しだけ手を止めて振り返り、懐かしいものを思い出すようにふっと目を細めた。
「あるよ。だいぶ珍しいけどな」
「本当に?」
「あぁ。親父の船に乗せてもらってた頃、一度だけ沖合で潮を吹いてるのを見た」
そう言って、燈矢はまな板を拭くと、少しだけ左脚を庇うような特有の歩き方でキッチンを出てきた。そして、客席の隅にあるアンティークの本棚の前にしゃがみ込み、数冊並んだ本の中から、ひときわ年季の入った分厚い図鑑のような一冊を抜き出してきた。
「基本的に、この辺の海を回遊してて、漁の定置網に迷い込むとしたら……こいつ、ニタリクジラかな」
彼が私の隣の席に腰を下ろし、カウンターの木目の上にコトンと図鑑を置く。
開かれたページには、深い海を悠々と泳ぐ、流線型の巨大で美しい鯨の姿が印刷されていた。
「ニタリクジラ……。大きいね」
「だろ。これでも鯨の中じゃ中型の方だけどな。体長は15メートルくらい。特徴はこの頭の上の3本の線で――」
図鑑のページを指でなぞりながら、彼が少しだけ得意げに、そして本当に愛おしそうに海の生き物の解説を始める。
彼からふわりと漂う潮風のような香りと、古い図鑑の紙の匂いが混ざり合った瞬間。私の脳裏に、あの薄暗い図書室の窓際の記憶が、鮮烈な色彩を持ってフラッシュバックした。
――何も変わっていない。
彼が義足になり、私が医者になり、お互いに大人という窮屈な鎧を着込んでしまっても。
こうして肩を並べて同じ本を覗き込み、彼が私に『私の知らない広くて深い海の話』を語って聞かせてくれるこの時間は、あの17歳の夏から、何一つ変わっていなかったのだ。