蒼へ沈む


彼がめくった図鑑のページには、巨大な頭部を持つ、別の鯨の姿があった。

燈矢の指が、その鯨のイラストをなぞる。

「ニタリクジラも大きいけど……」

燈矢が、ページを食い入るように見つめながら、少年のままの瞳で語り出した。

「マッコウクジラなんかも、凄いよ。こいつらは、2000メートル以上も潜るんだってさ」

「2000メートル……」

お猪口を持つ手が、思わず止まる。2キロもの深さ。地上の高層ビルなんて、おもちゃのように思えるほどの深淵だ。

「2000メートル潜って、そこにいるダイオウイカとかを食べるらしい。……想像できないよな」

想像する。
彼の声に導かれるように、私の脳裏に、静かに、けれど圧倒的な力を持って、その場所が広がっていく。

――地上の光が一切届かない。

太陽の暖かさも、風の匂いも、人の営みも、すべてが消失した、暗く深い場所。

そこにあるのは、永遠に続くかのような、一面の青。黒に近い、けれど確かに青い、絶対的な深淵。

冷たい静寂が支配するその世界で。

たった一頭、巨大な影が、音もなく泳いでいる。
そして、その暗闇の奥底から、誰にも聞こえない、誰にも届かない、寂しくて美しい鳴き声を、一つ、上げるのだ。

「…………」

あまりに鮮明なその想像に、私は身震いした。
それは、彼がいつか行きたかった、そして、もう一生行くことのできない場所。

その深淵のような場所に、彼は今も、魂の片割れを置いたまま生きているのではないだろうか。だから、私の脳裏にも、彼の見ている世界がこれほど鮮明に広がるのではないだろうか。

想像から意識を現実に戻し、私は小さく息を吐いた。

「……深海、か」

冷酒で少し熱を持った喉が、その言葉をなぞる。

私はお猪口を置き、隣に座る彼を、15年前と同じ、尊敬と愛おしさが入り混じった瞳で見つめた。

「ジャック・マイヨールの話。昔、よくしたよね」

ジャック・マイヨール。

15年前、図書室の窓際で、彼と二人で何度も著作を読み返した、映画『グラン・ブルー』のモデルになった伝説のフリーダイバー。

人が素潜りで到達できる深さは精々水深30メートルだと、それらしい合理的な理論を持って信じられていた頃、その壁を易々と打ち破り、水深100メートルという誰も見たことのなかった世界を見た人。

光のない、人間を拒絶する深淵へと、ただ純粋な愛と憧れだけで潜り続けた、孤独な男。

私のその言葉に、燈矢は一瞬だけ目を見張り、それから、すべてを諦めたような、ひどく優しい、けれど悲しい苦笑を浮かべた。

「……あぁ。そうだったな」

彼が、小さく呟く。
その声は、15年の歳月を瞬時に消し去り、私たちをあの薄暗い図書室へと連れ戻すと同時に。

もう二度と、あの無邪気な子供の頃には戻れないという残酷な現実を、夜の店内に冷たく響かせていた。

至近距離で合う視線。静かな夜の店内に、トクトクと自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。


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