蒼へ沈む
「……そろそろ料理、戻るよ」
下ごしらえの時間を置いていた燈矢が、ふと立ち上がってカウンターの中からキッチンへと向かう。
「手伝わなくて大丈夫?」
「いいよ。もう揚げるだけだし。油跳ねるから、そこでおとなしく座って待ってて」
私が立ち上がろうとするのを手で制し、彼はエプロンの紐を結び直した。
火をつけ、鍋に油を注ぐ心地よい音が店内に響き始める。
私は大人しくスツールに座ったまま、キッチンへ消えていく彼の背中を目で追った。
広い肩幅。少しだけ左脚を庇う特有の重心の取り方にも、もうすっかり無駄がなく、彼がこの場所で自分の店を持ち、一人で生きてきたという『大人の男の生活の年輪』のようなものが滲み出ている。
生姜醤油に漬け込んだ鯨の肉が熱い油に落とされ、パチパチと小気味良い音を立て始めた。流れるような手つきで菜箸を操るその後ろ姿を、私は頬杖をついて、ただうっとりと眺め続けていた。
「……何見てんの」
ふいに、背中を向けたままの彼が、呆れたような声を出した。
振り返らなくても、私がじっと見つめている気配に気づいたらしい。
「いや。流石、手際いいんだなって思って」
素直な感想を口にすると、彼は火加減を調整しながら、少しだけ肩を揺らして笑った。
「そりゃあな」
自嘲でも強がりでもない。それは、彼が自分の腕一本でこの店を切り盛りしてきたという、ささやかで確かなプライドが覗く、彼本来の屈託のない声だった。
「俺の手料理、楽しみにしてろよ」
「うん。すごく楽しみ」
油のはぜる音と、食欲をそそる香ばしい匂い。
ただご飯の出来上がりを待って、他愛のない会話を交わしているだけなのに。この小さなカフェの空間だけが、まるで世界のすべてから切り離された、二人だけの特別で温かい城のように感じられた。