蒼へ沈む
やがて出来上がった鯨の竜田揚げは、彼が言った通り、口の中でほどけるように柔らかく、信じられないほど美味しかった。
カウンターに向かい合って座り、他愛のない会話をしながら冷酒のお猪口を傾ける。
そんな彼の手元や、ふとした瞬間に見せる柔らかい表情を眺めながら、私は胸の奥で静かに噛み締めていた。
――私、この町に帰ってきてよかった。
心の中で、そっと呟く。
15年前の夏。彼があんな事故に遭い、私が何もできないまま、あんな風に終わってしまったこと。彼を一人で暗い海の底に置いてきてしまったこと。
私はずっと、逃げ出した自分への泥のような後悔を抱えて生きてきたから。
……またこうして彼に会えて、こんな風に笑い合って、穏やかな時間を過ごせる日が来るなんて、本当に思ってもみなかったのだ。
「……食後のコーヒー、淹れるよ」
「あ……うん。ありがとう」
彼が立ち上がり、再びキッチンでコーヒー豆を挽く音が響き始める。
その規則正しい音を聞きながら、私は目を閉じ、この奇跡のような幸福感を全身で味わっていた。
幸せだった。この上なく、満たされていた。
けれど。
――でも、だからこそ。
きっと私は、これ以上を望んではいけない、とも思った。
私がこれ以上彼に踏み込み、無理やり私の世界に引きずり込もうとすれば、やっと彼が一人で築き上げたこの穏やかな居場所『汐灯』を、また私が壊してしまうかもしれないのだ。
彼がこうして私に笑いかけてくれて、美味しい手料理を振る舞ってくれた。
ただそれだけで、もう十分じゃないか。これ以上を望むのは、私の傲慢でしかない。
「ほら、熱いから気をつけて」
ことり、と。私の目の前に、湯気を立てるマグカップが置かれた。
彼の不器用で優しい声を聞きながら、私は自分の心に、これ以上彼を求めてしまわないための『冷たい鍵』を、ひっそりと、けれど確実にかけたのだった。