蒼へ沈む



ふと顔を上げてブラインドを上げる。

高台にある診察室の窓からは、青く眩しいまでに陽の光で輝く汐鳴の海が、どこまでも広く見渡せた。

白波の尾を引きながら、いくつかの小さな漁船が、力強いエンジン音とともに沖合へ出ていくのが見える。

幼い頃から、嫌というほど見慣れたはずの景色だった。

けれど、汐鳴を離れて都会の景色に染まり、こうして約15年振りに故郷の海を真正面から見下ろしてみると、どうしようもなく心が動かされている自分がいた。息の詰まる町だと憎みながらも、私の身体の半分は、間違いなくこの潮風で出来ているのだと痛感させられる。

この汐鳴町は、昔から基本的な産業が漁業しかない、絵に描いたような小さな港町だ。
現在の人口は、およそ5,000人ほど。

全国の過疎地域のご多分に漏れず、ここも圧倒的なスピードで高齢化が進んでおり、若者は都会へ出ていき、町全体が静かに寂れ始めている。

あと何十年かすれば、この町は海風とともに緩やかに朽ちて、静かに消えていくのかもしれない。


それでも私は、この美しい海と、朽ちゆく町の人々の命を背負うために、あの眩しい都会から戻ってきたのだ。


ふぅ、と短く息を吐くと、眩しかった日々の記憶が蘇る。

……都会での大学生活は、本当に楽しかった。

わたしはあの時、初めて親元を離れて生活するという自由を知った。息が詰まるような「唯一の診療所の娘」という重たい肩書きを知る人は、あそこには誰もいなかった。誰もが私をただの「夏菜」として扱い、対等に笑い合ってくれた。

でも、同時にこれが永遠に続くことを望んではいけないと、心のどこかでずっと冷めた警鐘が鳴っていた。

だって、わたしに羽根なんか、本当はないのだから。

一時的に与えられた鳥籠の外の時間は、ただのモラトリアムに過ぎない。

都会で出会った友人たちは、皆優しかった。私が地元の小さな診療所を継ぐか悩んでいるとこぼすと、決まって真剣な顔で引き留めてくれた。

『そんな田舎、戻りたくないなら戻らなくていいんだよ』
『夏菜ちゃんの人生なんだから、好きにした方がいい』

皆、当たり前のようにそう言ってくれた。

わたしだって、もしわたしと同じように将来のしがらみに悩む人が目の前にいたなら、きっと何の疑いもなくそう声をかけただろう。
それが世間一般の『正しい優しさ』なのだと分かっていた。

……それでも。

わたしがあの閉鎖的な町で医者の娘として産まれて、あの町で過ごして、あの町の人々に育てられたことは、事実として絶対に消えないのだ。

玄関先に黙って置かれていた、採れたての野菜や不格好な魚。すれ違うたびに向けられる、無条件の敬意と、縋るような眼差し。

そうした町の人々の祈りにも似た好意を喰らって大きくなった私が、ある日突然「自分の人生だから」とすべてを忘れて生きて行くことなんて、できるはずがなかった。

背中に無い羽根を夢見るのは、もう終わりにしよう。
私はこの町で産まれて、そしてこの町で死ぬ運命だった。
短く息を吐き出すと、机に置かれた聴診器を、まるで自分を繋ぐ鎖を確かめるようにそっと握りしめた。







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