蒼へ沈む

1.2




最後の患者の診察を終えて、奥の居住スペースへと繋がる引き戸を開けると、夕食の準備を終えた母が、居間のテーブルでお茶を淹れて待っていた。

「夏菜。あのね」

湯飲みの縁を指でなぞりながら、母はひどく言いにくそうに、けれど確実にこちらの逃げ道を塞ぐような、静かな声で切り出した。

「帰ってきたばかりで、申し訳ないんだけれど。……貴方に、縁談があって」

テーブルの上に、上質な和紙の封筒がそっと滑らされる。釣書だ。
思わず視線を逸らした私を見て、母は慌てたように言葉を継ぎ足した。

「強制してる訳じゃないのよ。私もお父さんも、貴方がこうして戻ってきて、診療所を継いでくれるってだけで、本当に嬉しいとは思っているの。……だけど――」

だけど、町の人たちの目がある。女一人でこの重責を背負っていくのは可哀想だ。跡取りとして安心させてほしい。

母が言葉の裏に飲み込んだ「親としての正しくて重たい愛情」を、私はもう、痛いほど理解できる年齢になっていた。

「お母さん。ありがとう」

震えそうになる声を抑え込み、私はあえて淡々とした声で釣書を手に取った。

「――考えて、おくね」

自室に戻り、ドアを閉めた瞬間に、深く重たいため息がこぼれ落ちた。
手の中にある見知らぬ男性の経歴書を、机の隅に放り投げる。

……別に、他に添い遂げたい人がいるわけでもない。

かといって、この先ずっと一人で生きていきたいのかと聞かれれば、きっとそれも違う。

……そもそも、この閉鎖的な汐鳴の町で、医者といえど『32歳で独身の女性』がどういう目で見られるか。
好奇の目と、勝手な同情と、無遠慮な噂話。そんなものは、子供の頃からこの町で生きてきた私には、嫌というほど分かっていた。

逃げ場なんて、最初からどこにもないのだ。

私はネクタイを緩めるように白衣を脱ぎ捨てると、一人電気を消し、柔らかいベッドに身を沈めた。

……わたしは、この町で産まれて、この町で死んでいくのだろう。
昼間考えたことを、もう一度頭の中で繰り返した。


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