蒼へ沈む
2.5
逃げるように暗闇へ溶けていく彼の少しぎこちない背中を、私はただ唇を噛み締めて見送ることしかできなかった。
「……まだ、あんな奴と交流があったのか」
彼が見えなくなった後。
重厚な玄関の扉の前に立つ父が、ひどく冷たく、静かな声で問いかけてきた。
怒鳴り声よりもずっと重たい、明確な『拒絶』の響きだった。
「あんな奴って、何。……夜道が危ないからって、親切に家まで送ってくれたのに」
私はカバンの持ち手をきつく握りしめ、父を真っ直ぐに睨み返した。
「いい人よ。……見かけや、今の境遇だけで判断しないで」
医者として、一人の自立した大人として。私はもう、親の顔色を窺って俯くような子供ではない。はっきりとそう言い返した私の声は、しかし、どこか空虚に響いていた。
なぜなら、父のその冷ややかな視線は、私自身の『過去の罪』を容赦なく抉り出していたからだ。
思い出す。
前にも、全く同じことがあった。
あれは15年前の夏。
彼が、少しだけ夜遅くなってしまった帰り道、今日と同じように家まで送ってくれた時のことだった。
当時の燈矢は、眩しいほどの金髪に、耳にはいくつものピアスを開けた、大人から見れば絵に描いたような『不良』のスタイルだった。
初めて彼を目の当たりにした父は、彼が帰った後、玄関で私を怒鳴りつけた。
『何だあの男は! お前が関わっていいような人間じゃない!』
怒りで顔を真っ赤にした父の凄まじい剣幕に、箱入り娘だった17歳の私は、ただ震え上がることしかできなかった。
……私は、親にそんなにも激しく怒られるような『悪いこと』をしていたんだ。
あの時、私は初めて自分の置かれている立場と、彼との間に横たわる社会的な壁の存在を、本当の意味で理解したのだ。
自室のベッドで一人、私は何度も自分に問いかけた。
――私は、親の激しい反対を押し切ってまで、彼と一緒にいたいのだろうか?
――みんなから祝福される正しい道を捨ててまで、彼を選ぶ覚悟が、私にあるのだろうか?
考えれば考えるほど、分からなくなった。
彼が語る海の話は好きだった。彼の不器用な優しさも好きだった。けれど、その感情だけで親を裏切る勇気は、あくまで優等生として生きてきた当時の私には到底持てなかったのだ。
迷いと恐れは、確実に態度に表れた。
図書室で彼と目が合っても、気まずさからスッと視線を逸らしてしまうようになった。彼が話しかけてきても、曖昧な愛想笑いで誤魔化し、二人きりになるのを避けるようになった。
燈矢も決して馬鹿ではない。私が親のプレッシャーに負け、自分から離れようとしていることに、きっと気づいていたはずだ。
お互いに決定的な言葉を交わさないまま、少しずつ、けれど確実に、彼との心の距離が空いていくのを感じていた。
気まずくて、息苦しくて、いっそこのまま自然消滅してしまえば楽になれるのかもしれないと、最低な逃げ道を考え始めていた、
そんな時だった。
彼が海で、あの凄惨な事故に遭ったのは。
私から一番遠いところへ行ってしまった彼を前に、私は自分の浅はかさと、彼から逃げようとしていた卑怯な心を呪った。
私が彼から逃げようとしたから、海が彼を罰したのではないか。
あの時、私が彼の手をしっかり握ってさえいれば、あんなことにはならなかったのではないか。
15年間、私の心を縛り付け続けてきた泥のような後悔が、玄関の冷たい床の上で再びドロドロと溢れ出し、私の足元を黒く染め上げていくようだった。